「金曜日とあれば、タクシー事情は最悪である。仕方なく将棋会館に戻ると、羽生、脇、屋敷などが残っていた」

将棋マガジン1991年3月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。

12月21日

 大山の現状は(順位戦の話だが)あらためて説明するまでもない。この日、対南戦が行われるが、もし負ければ絶望的である。この一戦こそ見逃せない。

午後3時

 棋士室に行くと、石田が待っていたように「今日の大山先生はちがいますよ。席を立たないし、雑談もしない」と教えてくれた。

 文化功労者に選ばれてからの大山には、どことなく勝負に対する執念がうすれているような感じがあった。順位戦だけでなく、他社棋戦の成績もかんばしくなく、総合的に力の衰えが見えた。棋力、体力の衰えも問題だが、気力がなくなったのは大問題で、相手に感じ取られ、見くだされてしまう。そうなったときの棋士はみじめなものである。大山が負けるのは仕方がないが、無気力な将棋だけは見せて欲しくないと願っていた。過去の名棋士といわれた人達も、引退まぎわは無残な将棋を指した人が数多い。大山も同じになるのではないかと案じたが、石田の報告でホッとしたのである。

 序盤の形は4図。大山が指しやすい。

(中略)

 タイトル戦は負けてもともと、勝って得という勝負。防衛する側はちがうが、降級より気が楽だ。一方、降級のかかった勝負は、勝って現状維持。負ければ地位と実収が減る。勝負としては、後者がはるかに厳しい。

 そういう勝負を前にして、大山は案外平静だったのではないだろうか。もし、5連敗でなく、2勝3敗だったら、不安というより、嫌な気分で対局前の数日を過ごしただろう。棋士は、来るところまで来れば開き直れるのだ。拷問はされる前の方が辛いと聞くが、それと似ている。

 のびのびと△4五歩と突き、大山は有利を拡大して行く。

(中略)

午後9時

 機嫌がよかったのは石田である。棋士室に来ては、テレビを見て大山-南戦の批評をし、雑談にも加わる。将棋(田中寅彦八段-石田和雄八段戦)は5図だが、なるほど、これでは口も軽くなる。

(中略)

午前0時

 南が投げた瞬間、大山はニコリとした。そんな大山を見たのは、はじめてである。

 後日、加藤治郎先生にそれを言ったら、しばし間をおいて「そうだったの。しかし、笑顔は目に浮かぶようだな」と微笑した。

 一つ勝つと展望が開けた。危険な状態に変わりないが、気持ちよく正月を迎えられる、というものだろう。

 一仕事終えた気分で大広間を覗くと、2ヶ所から秒読みが聞こえる。加藤-大内戦と石田-田中戦である。

 11図は石田-田中戦で、石田必勝だが、この次、とんでもないヘマをやる。

(中略)

 平然と▲8六同角と取られ、石田は悲鳴を上げた。「バカな!」表に出たのは一言だけだが、胸中阿鼻叫喚の有り様だったろう。

(中略)

 冷静に見れば、まだ石田に残っている。なにしろ中盤がよすぎた。

(中略)

 14図から、△8七歩成(時間稼ぎ)▲8九玉で、石田は投げた。

「最後は詰んだと思ったんだが。歩があったとはツイてないや」

 石田のボヤキが出た。

「そうでしたね。それより詰んでたでしょう」と、△7五同角以下の手順を田中がいえば、ポンと頭を叩いて、「本当かい、なにやってんだ」

 また声が大きくなった。およそ30分ばかり石田が泣きを入れて、

「こんな日は飲まなきゃいられないね。そうでしょう、河口さん」

「いいですね。今日は私が払わせていただきます」

 田中が味よく応じて、近くの寿司屋へ行った。そこで3時ごろまで粘ったが、閉店で追い出されると行くあてがない。暮れの21日、金曜日とあれば、タクシー事情は最悪である。仕方なく将棋会館に戻ると、羽生、脇、屋敷などが残っていた。田中が呼びあつめ、斎田三段も仲間に入り、モノポリーがはじまった。見たところ、勝った者がほとんどである。一昔前は、帰りたがらないのは負けた者だったが、棋士気質もかわったのだろうか。

* * * * *

この期のA級順位戦で、大山康晴十五世名人は5連敗の後に4連勝して、残留を決めている。

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「旅行や遠足は、出発する前の晩が一番楽しい」という言葉があるが、「拷問はされる前の方が辛い」は、その真逆のパターン。

拷問は、される前もされている最中も、同じように(最高級に)辛いと思うのだが。

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「こんな日は飲まなきゃいられないね。そうでしょう、河口さん」

石田和雄八段(当時)の物真似をするとすれば、このような言い回しが良いかもしれない。

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「仕方なく将棋会館に戻ると、羽生、脇、屋敷などが残っていた」

羽生善治前竜王(当時)も脇謙二七段(当時)も屋敷伸之棋聖(当時)も、この日は対局。

1990年12月は、バブル崩壊の少し前の頃で、逆に言えばバブル真っ盛りの頃。

金曜日の深夜にタクシーをつかまえるのは、繁華街、閑散な街を問わず、至難の業だった。ましてや12月。

帰りたくても帰ることができなかった、帰るのをそもそも諦めていた、とも考えられる。

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「一昔前は、帰りたがらないのは負けた者だったが、棋士気質もかわったのだろうか」

負けたら飲みに行く人、負けたらまっすぐ家に帰る人、勝ったら飲みに行く人、勝ったらまっすぐ家に帰る人、それぞれが入り乱れているわけなので、この辺の傾向分析は非常に難しいと思う。