将棋マガジン1991年4月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。
大広間では、森(雞)-田中(寅)戦と、吉田-前田戦(ともに順位戦)がおもしろい形。歩得をした田中が肩を怒らせている。森はいない。そこへ石田が来た。思いここにあらずの顔。それを見て、
「さあ頑張るぞ、楽しませてくださいよ」と田中が言った。
我にかえった石田が、
「そんなバカな。5連敗して上がろうなんて虫がよすぎる。私はともかく、他が上がらせないよ」
「いやいや希望をいっただけです」
ご存知の通り、田中は5連敗したあと4連勝。上がるとか言っても、まだ負け越しである。しかし、かすかでも目があるとはたいしたものだ。ただ、今日石田が勝つと望みが断たれる。
(中略)
対局が多く、羽生をはじめスター棋士が大勢対局しているが、なんといっても人気があるのは、加藤と石田である。昼間からこの対戦が評判になっている。
戦い方も加藤独特のもので、相矢倉の流行形から、3七に無条件にと金を作らせた。常識的にいって、それでよいはずがないが、天才の考えはちがう。後からと金を飛車で追い回し、自陣の一段目に引きずり込んで殺してしまった。その有様をお伝えしたいところだが、紙数がない。
夕食休みのとき、対局者達の雑談を聞きながらウトウトし、ちょっと元気が出た。
「寅ちゃんの昇級はありえない。ボクが負かす」と言っていた森も、中盤の指し方がまずく、必敗形である。
「まだ息があるぞ!」
田中は勢いよく控え室に入ってきた。ところが、加藤-石田戦は、石田優勢である。控え室では優劣を大げさに言う傾向があるが、それを割り引いても、加藤に勝ち味がすくない。「なあんだ」田中はがっかりして対局室へ戻っていった。
B級1組の降級は1名。鈴木が苦しい立場で、同僚達にはこれが読み筋だったらしい。しかし、福崎を破ったりして粘り、今日も勝てばまた首がつながる。
(中略)
将棋はこれまで。鈴木は正座で腕組みし、ジッと動かない。小野はうつむいたまま。その背後に森が立って盤面を見つめている。田中も立ったが、こちらはすぐはなれた。
(中略)
端歩を突かれ、11分考えて鈴木は投げた。早すぎるようだが、不自然ではない。
それを確認し、森は盤の前に戻って投げた。鈴木は負けて降級が確定したからである。
こういう情景を私は好きである。内心は他力をあてにしながら、見て見ぬふりより、よっぽど率直で堂々としている。
さて、加藤-石田戦である。対局はあらかた終わり、みんな控え室へ集まって田中をはやしている。
「5連敗したときは破産しそうな会社だったのにな。今や人気銘柄だ」と、これは株通の桐谷。
「だけど、元のもくあみになりそうだ」誰かが継ぎ盤を見ながら言った。
「いいよ、これだけ楽しませてもらえれば」田中も念力をかける気がない。それほど離れているのである。
12図は石田が△6九銀とかけたところだが、いわゆる”筋に入った”形だ。
(中略)
△1二歩は皮肉な受け。加藤は動かす駒がない。▲3九香とまたもや香を立てたが、これまた苦しまぎれに見えた。
13図からの指し手
▲1七飛△2六馬▲3七飛△3四歩▲同飛△同金▲同香△4一玉▲7四歩△1三歩▲7三歩成△1二飛▲3三歩△3一歩▲5五歩(14図)大熱戦である。しかし手の解説はうんざりだろうから、くわしいことは省く。
問題は△4一玉だった。ここは△4二玉と逃げるのが正着で、以下、▲2三成桂△3八飛▲2四成桂△5九馬と、わかりやすい順で石田が勝てた。
▲7四歩の取り込みから、▲7三歩成が生じ、△1二飛と逃げるようでは後手がおかしい。
「やや!やったか」田中が奇声を発した。
▲5五歩と突き、香がピッタリ利いている。完全に流れは加藤のものである。継ぎ盤が2組あり、一つは青野、田中、森組。もう一つは、羽生・先崎・郷田等が囲んでいるが、あまりのことにみんな呆然としている。
(中略)
14図からの指し手
△4二玉▲5四歩△4三玉▲3八桂△3七馬▲4六桂打△4五歩(15図)ここで△4二玉と逃げ出しを図るのでは、先の△4一玉の非がはっきりした。なりふりかまわず△4三玉と上がって入玉を狙うが、加藤は心得て▲3八桂と予防線を張る。
さらに▲4六桂打とつなぎ、△4五歩と突いたところが最後の山場。
控え室の面々はおそろしく手が見える。(15図で)▲3五金はすぐ発見されたが、以外に面倒なところもある。
そのうち先崎が、15図で▲4七金と打つ手を見つけた。どうだ、と胸を張れば、田中がけたたましく笑った。図に乗った先崎は「この手が見えぬようではA級に上がる資格がない」。
▲4七金は妙手。△同馬と取れば▲5三歩成△4四玉▲5四と△3五玉▲2六金までぴったり詰む。
15図からの指し手
▲3五金△5四金▲同香△3五銀▲5三香成△同玉▲5四金△5二玉▲5三歩△4一玉▲4三金△4二金▲同金△同玉▲4四歩△同銀▲4三歩△5三玉▲5四金△5二玉▲3二歩成△同歩▲4四金△5八飛▲3二香成△同飛▲5四歩△6一桂▲5三銀△同桂▲同歩成△同飛成▲同金△同玉▲5四飛△4三玉▲5五桂△3三玉▲3四飛△4二玉▲4四飛△3一玉▲4三桂成△4一香▲3二成桂△同玉(16図)加藤は金打ちが見えず、▲3五金と平凡?な手で攻めた。
局後、先崎の言葉を伝えたら「たしかにそれは言えるね」と笑った。勝った棋士は何を言われても怒らない。
▲3五金もわるくなく、以下玉を下段に追い詰めて寄り形である。玉は裸でせまく、考えやすいし、自分の玉は安全で、トン死筋もなければ一手すきもかからない。そんな楽勝の将棋が、なんでこんなに長引くのか。
本気で強くなりたかったら、15図からを盤に並べられるとよい。ここに、玉を詰まさなければ勝てないし、詰ますのは容易でない、との将棋の本質があらわれている。
もし並べれば、プロに二枚落ちでなぜ勝てないかが判るだろう。必勝になりながら、やさしい寄せを逃して負ける。後で教えられればばかばかしくなるような手だが、実は、その正着はやさしく見えてやさしくないのである。天才加藤がこんなに手こずるくらいだから。
16図となり、またみんな盤の前に集まりだした。あやしくなったからである。
継ぎ盤で羽生が▲1二飛と打ち、郷田に△2一玉と逃げられて、アッと声をあげている。
16図からの指し手
▲3五飛△3三歩▲4一飛成△同玉▲3三飛成△4二銀▲4四香△3二金▲3四桂△6四馬▲4二桂成△同馬▲5三銀まで、加藤九段の勝ち▲3五飛が素晴らしい感覚。やっぱり加藤は天才だ。継ぎ盤の面々も田中も、ようやく終わった、と息をついた。「田中株は大暴騰だな」そんな声も聞こえた。
終了は午前1時51分。石田は青ざめていた。勝てば断然有利だったのに、負けては三番手に後退である。
これほど戦いながら負けては、飲まずにいられないだろうが、あいにく残った面々はモノポリーを始めていた。
石田は「つまらぬゲームが流行りおって」と内心ふてくされたことだろう。
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ラス前のこの日が終わって順位戦B級1組(昇級2名、降級1名)の状況は、
小林健二八段(3位)9勝1敗(昇級確定)
加藤一二三九段(7位)6勝4敗
石田和雄八段(9位)6勝4敗
田中寅彦八段(1位)5勝5敗
森雞二九段(4位)3勝7敗
鈴木輝彦七段(12位)2勝8敗(降級確定)
ということになった。
石田和雄八段(当時)が勝っていれば、田中寅彦八段(当時)昇級の可能性がなくなっていた。
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最終局では、石田八段も田中八段も勝ち、石田八段が昇級することとなる。石田八段が意地を見せた形だ。
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「この手が見えぬようではA級に上がる資格がない」と大胆に言う先崎学五段(当時)。
「継ぎ盤で羽生が▲1二飛と打ち、郷田に△2一玉と逃げられて、アッと声をあげている」と、継ぎ盤で向かい合っている羽生善治前竜王(当時)と郷田真隆四段(当時)。
今から考えれば夢のような控え室だ。