「たとえばいま、若い女の子に”ボクの趣味は将棋だ”と告白するには、ちょっとした勇気がいる」(首都圏に将棋道場が100軒近くあった時代)

近代将棋1988年7月号、露樹陽さん(東京レポート)、池崎和記さん(大阪レポート)の「将棋道場は今!?」より。

〔東京〕

 仕事柄、私は都内の道場によく足を運ぶのだが、以前の賑わいがそのまま残っている道場はめっきり少なくなったように思える。中には恐ろしいほどの凋落ぶりを見せつけるケースもあって、席主がたった1人のお客さんを相手にマン・ツー・マンの指導をしていたり。室内があまりに森閑としているので駒音がかえって反響する。なにやら薄ら寒い気がしたものである。

 東京における老舗の一つ、渋谷・道玄坂の「高柳道場」に金準三郎氏を訪ねた。金さんは故・金易二郎名誉九段の実子で、高柳敏夫八段とは義理の兄弟にあたる。

 高柳門は周知の通り、中原誠名人を始め多くの俊英プロ棋士が巣立った名門だが、彼らの奨励会時代が道場と共に、ということは金さんの指導のもとにあったことは、あまり知られていないようだ。受付、手合係、盤駒の後片付け等、道場用務を通して高柳門下生が成長していった様子にも興味が唆られるが、今回は運営に的を絞って訊いた。

「お説の通り、お客さんの数はめっきり減った。うちばかりではなく、道場の客足は5年前と比べておよそ半分というところでしょう。昭和20年代の東京の道場数といったら、指折り数えられる程度だった。それが40年代、50年代にぐんぐん増えて、今では首都圏にざっと見渡して100軒あります。しかし軒数の増大に比べて客足は横這いでしょ、経営困難の根本原因はやはりここにある」

 花形プロ棋士がマスコミから引っ張りだこになって、触発された少年達が親子同伴で奨励会入会試験に群がる現象が起こり、読売新聞が超大型新棋戦「竜王戦」を発足させたとしても、将棋にお金を使うファンの数は増えていないかもしれない―将棋産業に生業を求める人達に、これはゆゆしき問題である。

 一昔前、庶民の趣味といえば、将棋、碁、麻雀、あとは映画に読書というところだったが、周知の通り、現在、レジャーははなはだしく多様化し、ありとあらゆる遊びが氾濫している。ファンの将棋離れが起こっても、いや将棋から離れるとは考えにくいから、新たなファンが生まれにくくなっているとしても、不思議はないかもしれない。

(中略)

〔関西〕

「将棋ファンが少なくなった」という話をよく聞く。ここでいう「ファン」というのは、実際に将棋を指す人のこと。あるいは新聞や専門誌の観戦記欄を好んで読む人のことだ。

 そういう「ファン」が減ってきているらしい。市場調査したわけではないが、私にも実感として何となくわかる。「縁台将棋」という言葉は、すでに死語になりつつある。

 寂しい時代である。

 たとえばいま、若い女の子に「ボクの趣味は将棋だ」と告白するには、ちょっとした勇気がいる。相手は「ステキね」とは言ってくれないし、「何段なの?」と聞いてもくれない。それどころか胸にグサリと「まあ、クライ人ね」とくる。

 将棋のどこがクライのか、わからないけれど、これが現実だ。あーヤダ。

 だれが何と言おうと、将棋は面白い。それなのに面白さがわからない(というより知らない)人が多すぎるんだね。思わず「あんたは不幸な人だ」と言ってやりたいけど、言ったところでどうなるわけでもない。

(以下略)

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昭和が終わる頃に首都圏に将棋道場が100軒近くあったとは、今からは想像ができないようなこと。

近代将棋1972年1月号(道場が増え始めた頃)に掲載されている広告をチェックしてみると、東京都内だけでも例えば次のような場所に道場があった。

神田駅将棋センター 千代田区神田鍛冶町
新橋将棋センター 港区新橋3丁目
新宿将棋センター 新宿区歌舞伎町
新宿道場 新宿区歌舞伎町
東京将棋道場 新宿西口
王将クラブ 新宿区新宿1丁目
中野道場 中野区中野4丁目
阿佐ヶ谷将棋センター 杉並区阿佐ヶ谷北1丁目
上野将棋センター 台東区上野6丁目
広小路将棋センター
国際将棋道場 台東区西浅草3丁目 国際劇場地下北側入口
浅草将棋サービスセンター 浅草六区映画館通り
台東将棋クラブ 台東区日本堤1丁目
荒川将棋センター 荒川区荒川4丁目
亀有囲碁将棋道場 亀有駅北口
高柳道場 渋谷区道玄坂
渋谷将棋クラブ 渋谷駅東口
池尻将棋クラブ 世田谷区池尻
祐天寺クラブ 目黒区上目黒4丁目
下北沢将棋センター 下北沢駅南口
五反田将棋道場 五反田駅西口ヘルス東京隣
池袋道場 豊島区西池袋3丁目
立川将棋クラブ 立川市
町田将棋センター 町田市
町田将棋クラブ 町田市

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1984年、 国鉄の「ディスカバー・ジャパン」「いい日旅立ち」、富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」などのキャンペーンをプロデュースした電通の藤岡和賀夫さんが「さよなら、大衆」という本を書いている。

それまでの画一的な大衆消費から、それぞれの感性を共有する仲間たる「少衆」が個性的な消費を繰り広げる多様な消費の時代へ転化する、少品種大量生産から多品種少量生産に方向が変わらなければならない、と説いている。

趣味の世界も同様に、多様な時代へと変わっていった。

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とはいえ、将棋道場が隆盛を極めていた時代も、頭打ちとなった時代も、減少している時代も、若い女性に「ボクの趣味は将棋だ」と告白するのはかなり勇気のいることに変わりはなかった。

このような状況が改善しはじめるのは、羽生善治七冠誕生前後の頃から。

そのような面から見ても、羽生七冠誕生は、将棋に対する一般的なイメージを一気に変えてくれるような素晴らしい出来事だった。

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