佐藤健伍六段の死(1987年)

近代将棋1988年3月号、原田泰夫九段の「元祖三手の読み」より。

人生の最後を学ぶ

 佐藤健伍五段(追贈六段)死去、12月22日午後9時15分ごろ、世田谷区末廣荘の四畳半のコタツで酒ビール独酌、仰向けになって死んでいた。彼の人徳で各紙が好意的に報道、特に読売は「不遇の棋士、孤独の死、脳溢血か身寄りなく、棋戦に出られず」写真入り四段ぬきに大きく扱った。棋聖戦と王座戦の社会面速報の連絡解説を約20年間、名人戦速報大盤解説の駒操作名人として30年間、各紙各誌に紹介された。

 年末24日お通夜、25日告別式、世田谷区桜丘の浄立寺には朝日、サンケイ、日経、棋士代表の花環が沢山飾られ恩師加藤治郎先生ご夫妻はじめ理事会、縁故の人たちが参拝、佐藤家関係の皆さんは健伍さんを見直しているようであった。

 正式に四段昇段ならずの準棋士で順位戦、各棋戦には参加資格がなく、普及指導に徹し表面に立てられず、裏側から将棋界に盡力した。親兄弟ともつき合わず棋士仲間、報道関係、ファンとのつき合いもごく僅かであった。

 誰の世話にもならない、迷惑をかけない、悪いことはしない、将棋は強く筋がよく研究する、読書、旅行が好き、特に温泉が好きであった。約束は堅く指導稽古が熱心なので、富士銀行、太陽神戸銀行の将棋ファンが浄立寺へかけつけて下さった。

 白木の大きな棺に仰向けの仏様の健伍さんに白菊を納めた。彼は59歳、原田は65歳、これまで20人か30人の仏様のお顔を眺めご冥福を祈ったが、健伍さんのように悠々として満足、丸々太って血色のいい仏様に接したことはない、お見事、拍手したくなるお顔。

 やや吃りがち独特な話し方の健伍さんに最後のお別れに死に方の指導をうけた。

「はーはー原田さん、私の幸福な顔を見て参考になったでしょう。しーしー死ぬ前に誰にも迷惑をかけず一ぱい飲んで天国へ行くんですよ」

将棋のご縁

 お通夜、告別式、火葬場、清めの宴で佐藤家の皆さん、親しかった藤代三郎五段、多田佳子二段から健伍さんについて初めて知ることが多かった。お話をそのまま記す。

 元満州国石油理事長の佐藤健三さんの末っ子、7人兄弟、それぞれ優秀、岩手県の庄屋が先祖、ご両親は帝大とお茶の水女子大出身、お父さんは27歳で日本石油支社長、新潟市居住の昭和3年に彼が生まれた。

 幼年時代に耳の大手術、神経をやられた面がある。しかし将棋の神経が狂わず皆さんにかばってもらって幸福な男であった。

 お父さんは社長、重役になると、挨拶、宴会、会合出席が多いので拒否、研究家として支所長、支社長で重役待遇、満州から引き揚以後は出光石油の出光佐三社長が面倒をみて下さったようです。

 彼は音信不通、会社で「弟さんの記事が出ている、我々は社長になっても大新聞で扱ってくれない」会社仲間と話したばかりですとお兄さんの話が続いた。

 12月23日午前1時半頃、世田谷警察から至急電話「佐藤健伍さんの親兄弟の住所、電話が分かりませんか、箱根強羅の福原重朗さんからのお届け物に部屋を訪ねても音沙汰なし、やむなく宅配人と部屋を見ましたら死んでいました。福原さんは原田家にきくように教えてくれましたので―」警察には翌朝羽織袴で参上したが、その時はさあ大変、読書して軽く一ぱい、そろそろ就寝の手順の場面、眠るどころではない。

 加藤先生ご夫妻に電話、だが佐藤家の電話番号不明。サンケイ新聞文化部次長の和佐野さん宅にも電話「21日(桐山-五番番勝負第2局)健伍さんは連絡もなく社へ来ない、こんなことは今までにないこと、何かあったら知らせて下さい」おかしい、へんな感じがしていた。

 今にして思うと12月20日夜に無意識で今宵別れの独宴ではないか、サンケイ、日経のタイトル戦連絡解説係が生きがいであった筈。

 人生はすべて因縁、仏様の発見は福原さんがお歳暮に小田原のカマボコを原田、佐藤宅に毎年お送り下さる、その配達で分かったこと、将棋のご縁に感謝また感謝。

 毎年2月第3日曜の箱根名人戦将棋大会に約20年続けて出席、指導、酒、温泉を最大の楽しみにしていた。今年度は第35回2月21、22日、原田と一緒に行く予定、35年継続の催し、大会終了後、風祭の国立箱根療養所を慰問する。

 去年までは箱根花壇、今年は仙石原ホテル花月園、先日彼と電話で打ち合わせをしたところであった。あんなに箱根名人戦を喜んでいたのに、寂しい。

健伍さん快勝局

 昭和16年か、神田美土代町「松本亭」で名人戦創案の中島富治先生主催の中央棋友会(毎月第1日曜アマ大会)があり原田初段か二段時代、手合い係を勤めた。そこへ最年少の健伍さんが登場、筋がよく強い、プロになりたいことが分かった。

 加藤先生に原田が鍛えて強くしますから一緒に内弟子に置いて下さいとお願いした。

 石油界の巨頭の息子と分かり先生ご夫妻がご諒承されて原田が入隊するまで共にお世話になった。四枚落、二枚落、飛車落、上達が早く18年頃は角落で押され気味であった。

 戦争がなく、また復員が早ければ彼はとっくに七、八段に進んだ筈、お父さんが石油の権威で大連に渡っていた。この点、気の毒、健伍さんを連れて関根金次郎十三世名人宅(麹町三番町)へご挨拶に参上、名人はちらりと健伍さんを眺めて「この子には薬屋へ行って”気轉丸どんくだし”を買って呑ませるように師匠の加藤に言ってくれ」面白い名人の言葉にきょとんとしたことを想い出す。

(以下略)

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オールドファンの方々にはおなじみの佐藤健伍六段。

当時は準棋士(現在の指導棋士)という位置付けだった。

昭和40年代のNHK杯戦では、棋譜読み上げが蛸島彰子二段(当時)、記録係が佐藤健伍四段(当時)という布陣だった。

また、有楽町にあった朝日新聞社本社(現在の有楽町マリオンの場所)裏手で毎年行われていた名人戦大盤解説会で、超特大大盤の駒操作を行っていたのが佐藤健伍四段だった。

江國滋「名人戦大盤解説観戦記」

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佐藤健伍六段の父親の佐藤健三さんは、東京経済大学会誌などの資料によると、1907 年に東京帝大工科大学応用化学科を卒業して宝田石油(日本石油のライバル会社で1921年に日本石油と合併)に入社。以後、新津製油所長・日石柏崎製油所長・満洲石油理事長等を歴任している。

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昭和が終わるほぼ1年前。

芹沢博文九段が亡くなってから11日後のこと。

1987年は、石原裕次郎、 鶴田浩二、渡辺晋(渡辺プロダクション創業者)、梶原一騎、トニー谷、岸信介など、昭和の雰囲気を濃厚に持った人達が亡くなった年。

佐藤健伍六段も、昭和の将棋界を語る上では、不可欠な存在だ。