将棋世界1988年1月号、炬口勝弘さんの「ズームアップ・話題の棋士 森内俊之新人王」より。
①白黒のニュース映画。昭和35年、国会議事堂前の安保反対デモと警官隊との乱闘。
②昭和35年4月。第19期名人戦・東京渋谷の羽沢ガーデン。大山名人に20歳の学生、加藤一二三九段が挑戦している。
③東京・世田谷、三軒茶屋。春5月。遠くから流行歌が流れてくる 黒い花びら静かに散った あの人は帰らぬ…『京須将棋道場』と看板の出ている建物に<忌中>の紙。奥の祭壇には故人の京須行男七段(後に八段・享年46才)の写真が飾られ、親族の席には未亡人のたみ(46)、一人娘の節子(16)が並んで座っている。
(中略)
⑦万博のニュース映画。 こんにちはこんにちは…賑やかな歌の中で、ココの声をあげる俊之。
⑧東京調布、アパートの一室。若い母が片隅で乳飲子をあやしている。生後1ヵ月。テレビには三島由紀夫の演説姿が何度も映る。食い入るように見つめる父親。昭和45年秋、11月。
⑨昭和54年7月7日。神奈川県川崎市郊外の田園都市みたけ台の一軒家。昼下がり、白い短パン姿の少年俊之(横浜市立みたけ台小3年、8歳)が子供用自転車に乗ろうとしている。近所から友達がその姿を見て声をかける。友達「俊クン、どこ行くの?」少年はサドルにパッとまたがり、誇らしげに、そして大きな声で叫ぶ。俊之「ショーギ、ショーギ、レンメー」友達「え?どこ?」俊之「ショーギ、レンメー」自転車、遠ざかっていく。光る銀輪、蝉の声。
(中略)
⑫同じ居間。ただし10年の歳月が流れ、ピアノの上には、かつてはなかった大きな「王将」の飾り駒が置かれている。部屋にはシャレた花瓶に切り花が活けられていてあたりに住む人の床しさ、気品が漂う。晩秋の昼下がり。髪の毛がモジャモジャな貧相な中年記者が、祖母・はな(73)と母・節子(43)にインタビューしている。
節子「あの子が将棋連盟に初めて行った日のことは、私、今でもよーく憶えているんです。3年生の7月7日だったんです。私、この日の事、きっと忘れないだろうなと思って、よく憶えているんです。なにしろ将棋に熱中しちゃってましてね、習いに行くっていうのがそれはもう嬉しくって。土曜日だったんですけど、学校から、もう飛ぶようにして帰ってきましてね。その日はオバアちゃんと渋谷駅で待ち合わせてたんです。母が一足先に出かけていて、渋谷で一緒にご飯食べて、それから連盟の土曜教室に行くことになってたものですから。私、家の中で聞いておりましたんですが、「ショーギレンメー」ってそれは大っきな声を出してね、それにあんな嬉しそうな声聞いたの初めてなんでね、なんか、もしかしたらあの子、将棋の世界に行っちゃうのかなと思って、今日の日にち憶えておこう、なんて思ったものでした」
節子の目にうっすらと涙が滲んでくる。
(中略)
節子「それまでは、絵やピアノ、それからポニー牧場の乗馬とか、いろんなところに出していたんですが、いつも、なんか馴染まないで、つまんなさそうな顔して帰ってきてたもんで……。この人、いったい何をアレしたらほんと目が生き生きするのか、喜ぶのか……。それが本当に将棋に熱中するようになってその稽古に行く日は嬉しそうでしたので……」
記者「やはり血なんじゃないですか。オジイさんがプロ棋士だったから、やはり環境的にも…」
祖母「いえ、主人は35年に亡くなり、あの子が生まれたのは45年。10年も経っていましたし、道場も辞め、盤も駒も棋書なんかもほとんど処分して残っておりませんでしたし…。ええ、勿論道場を開いておりました頃には、私も手伝っておりましたが、まったく駒の動かし方も知りませんし、ただお客さんにお茶をお出しするぐらいでして」
母「ごく普通の家庭でした。ただあの子が将棋を知る前に、オジイちゃんが将棋指しだったってこと、ちょっと話したことがあった程度で、ほとんど環境としては将棋に縁がなかったですね。まさか自分の子が、父のようにプロになるなんて夢にも思いませんでした」
(中略)
記者「駒の動かし方はお父さんから教わったと聞きましたが、お父さんはなんですか大内棋道会に入っていらっしゃるとか、本当はお強いんでしょう?」
父「いえいえ、ほんの駒の動かし方を知っている程度でして。私は、小学校の頃に、兄がやっておりまして、ひと通り覚えたんですが、熱中したこともなくて…。大内さんとは、たまたま私の勤め先の近所に大内さんが住んでいて、それで知り合ったような訳でして」
母「主人は若い頃、弁護士さんの書生をしておりまして。そちらの弁護士さんと大内さんのお父さんと仲がよくて、それで大内さんもしょっちゅういらっしゃってたんです。(笑いながら)私、主人とお見合いしました時も、たまたま大内さんを共通に知っているということでまとまったようなぐらいで……」父親の職業は司法書士、行政書士。現在渋谷区役所近くのビルに事務所を持っていて、毎日通勤している。どちらかと言えば、子息と同じく口数の少ない方だが、子供の幼少期、将棋以前の頃を振り返り、懐かしそうに語り始める。
⑭俊之、幼稚園の頃。部屋いっぱいにブロックの玩具を広げている。くっつけたりはずしたり夢中になっている。
「レゴと言いましたか、あれが好きでね、乗り物を作り、線路を部屋中にバーと広げまして、もう開けても暮れても、そればっかりでした」
⑮俊之小学校3年の夏休み。東京駅新幹線ホーム。父親の郷里、奈良へ向かう一家。ベンチに座った瞬間、少年はカバンの中から小さな折りたたみ式の磁石盤を素早く取り出し、目を輝かせて「お父さん、やろう」。父親は苦笑しながらも付き合う。
父「とにかく好きなことをやると楽しそうで、そればっかりやるんですね。やりだしたら止まらない。子供連れの旅行の時はいつもそうでした。ちょっと休憩しようと言っても”イヤダ”と言ってね。そういうところありました」
⑯東京千駄ヶ谷の将棋会館。土曜教室で対局中の子供たち。その中に俊之の姿も見える。講師は京須門下の準棋士・工藤浩平五段。
母「とにかく将棋を指したがりましたね。毎日毎日。たまたま母のところに、父が亡くなりましても将棋世界を毎月送っていただいていたので、それが何冊かありまして、こんなものあるわよ、と渡しましたらね、何冊もこう畳の上に並べまして、何時間でも分かっているかどうか、とにかくあっちこっちと頁を繰っては、かわるがわる見ているんです。あんまり熱心なものですから、工藤先生のところへお電話して、近くでちゃんと教えてくれるところないかしら?そしたら、自分が連盟で教えているから、そちらへいらっしゃい。その初めての日が、最初にお話しました7月7日だったのです。それからは、工藤先生のところの支部、西東京支部にも入れていただいたり。ほんとに工藤先生にはずいぶんお世話になりました。家に泊めて下さったり、青森への将棋旅行なんかにも連れて行っていただいたり。ほんと、工藤先生に育てていただいたようなものです」
⑰太陽がギラギラと照っている。昭和56年夏。神奈川県藤沢市の駅前。デパート、藤沢さいか屋には「将棋まつり」の垂れ幕が下がっている。会場では小学生将棋大会の決勝戦が終わりに近い。対局する二人の少年。ともに昭和45年生まれの小学5年生。羽生少年が投了。ちょっと内気な森内少年、優勝ではにかんでいる。羽生9月27日、森内10月10日生まれ。ともに天秤座。この翌日、また別の将棋大会の会場で二人は会う。
⑱東京渋谷のNHKスタジオ。翌年の昭和57年春3月。煌々と輝くライトの下で小学生名人を争う少年達、その中に俊之、羽生の二人の顔も。片隅で、京須門下だった北山和佑(道場経営者)が、かたずをのんで見守っている。俊之は3位で涙を呑み、一方、羽生は優勝。羽生にはフラッシュの雨。
⑲千駄ヶ谷・将棋会館、同年秋10月。俊之、すでに小学6年生になっている。2階の研修室は、さながら学習塾のおもむき。短パン少年の姿もちらほら。刈り上げた髪から、大きめの特徴のある耳が突き出している。奨励会入会試験の会場である。答案用紙を配る現役奨励会員の姿が大きく見える。
⑳明日の名人を夢見て集まった受験者は関東だけで71人。うち合格は17人。5年後の現在、晴れてプロ四段になれた者とは裏腹に夢破れて去っていった仲間も少なくない。なお関西ではやはり天才の誉れ高い佐藤康光がこの年、受験していた。
※受験者へのアンケート調査
森内俊之(12歳・神奈川・6級・勝浦)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕………
〔勉強方法は〕将棋道場(渋谷将棋センター)、連盟の土曜教室、詰将棋を解く
〔学校での得意科目は?〕算数
〔将棋以外の趣味は?〕なし
〔受験の動機は?〕プロになりたい羽生善治(12歳・東京・6級・二上)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕57年小学生名人
〔勉強方法は〕将棋道場(八王子将棋クラブ)、詰将棋を解く
〔学校での得意科目は?〕算数
〔将棋以外の趣味は?〕なし
〔受験の動機は?〕プロになりたいから中川大輔(14歳・宮城・6級・米長)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕第7回中学生名人戦優勝
〔勉強方法は〕将棋道場(東北将棋道場)、詰将棋を解く(詰むや詰まざるや)
〔学校での得意科目は?〕美術
〔将棋以外の趣味は?〕なし
〔受験の動機は?〕べつになし郷田真隆(11歳・東京・6級・大友)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕勝負どきに弱く、あまり良い成績をおさめていない。
〔勉強方法は〕将棋道場(練馬将棋道場)、棋書(将棋大観)(つづく)
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映画かドラマの脚本のような構成で書かれている。
森内俊之九段の祖父である京須行男八段が亡くなる頃から話が始まっている。
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「遠くから流行歌が流れてくる 黒い花びら静かに散った あの人は帰らぬ…」
これは、第1回日本レコード大賞を受賞した水原弘さんの「黒い花びら」の出だし。
ちなみに水原弘さんというと、昭和の頃のアース製薬の殺虫剤「ハイアース」のホーロー看板に出ている人だ。(もう一人は由美かおるさん)
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ここには書かれていないが、森内九段の師匠の勝浦修九段は、奨励会時代に京須家に下宿していた。
→勝浦修九段「子どもを弟子にしてくれませんか、と頼まれたんですよ。その子どもが小学生の森内くんでした」
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「レゴと言いましたか、あれが好きでね、乗り物を作り、線路を部屋中にバーと広げまして、もう開けても暮れても、そればっかりでした」
森内九段は鉄道ファンだが、この頃からその萌芽を見ることができる。
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奨励会受験者へのアンケート調査、将棋以外の趣味を持っていないという回答がほとんど。
小学生高学年の段階では、やはり将棋一筋、趣味が分散していては奨励会合格は難しいのかもしれない。
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中川大輔6級(当時)の得意科目が美術なのはとても意外だ。
郷田真隆6級(当時)の『将棋大観』、格調の高さはこの本などの影響もあったのかもしれない。