「世代の大転換はそうあるものじゃない。旧人に余力がまだ認められ、若手同士競い合っているうち消耗して行くから、全体的に見れば自然な移行状態を示すはずである」

将棋世界1988年5月号、二上達也九段の「解析 中原将棋・谷川将棋 世代交代成るか」より。

 棋風を形作るものとして、性格的なものは無視できないが、基本となるべき将棋に対する考え方が何時形成されたのか考えてみたいことどもである。

 筆者自身ふり返って見ると、何といっても升田、大山の角逐に最も影響されている。

 私が専門誌を読み始めた頃は、両巨人の対局を取り上げる頻度が高く、それも金子教室に代表される棋譜解説の影響力は、また格段のものがあった。

 しかも情報量の少なさは、個人に選択の幅を制限させる。大別して大山タイプか升田タイプか、そのどちらかに片寄って行かざるを得ないのである。

 その辺をふまえて最近の若い棋士は個性派が少なくなったと言われていることに少々疑問を感じる。

 世の中生活が豊かになるにつれ、争いごとを好まなくなる。自然自分の我をはる要は少ないわけだ。表面は穏やかに見えるし、特に個性をふりまかなくたって差しつかえない。

 昔から老人は、最近の若い者はと言うのが口ぐせみたいなもので、一種のやっかみ心が底にある。

 表面だけをとらえて、コピー人間、コピー将棋、無個性を表現するのは、どうやら間違いではないかに思える。

 豊富な情報の中から、自分に合ったものを選び出して行くのだから、むしろ個性、即ち棋風の多様化が図られているのではなかろうか。

 かつて私は升田将棋、大山将棋を論じて、ネガとポジの関係を示唆した記憶がある。

 本質的なものまではなかなか判断できないが、或る意味では当たっていたのかもしれない。

 映像を合せて見ると、驚くほどぴったり一致する。

 一方的な棋譜も結構多いが、数々の名勝負の内容は感覚面でも読み筋の上でも極めて類似性を保っているのである。

 読み筋を例えて言うならば、写真の画像に似ている。一手一手順を追って読んでいるわけではない。数手先また数手あとの局面が任意に脳裏に映じる。

 私自身旧人の立場なり状態で説明を加えれば、一枚一枚スチールを写したり、映画のようにどんとん場面を移動させたりする。

 現在の若い人達は一体どうだろう。恐らくテレビ、ビデオの時代に入っている気がするのである。画面の固定化が一つの信念を形作り、頑固と言っていいくらいの個性になってしまう。

 もはやその時代は過ぎ去りつつある。

 情報の流動化と過多状態は、棋才以外の別な能力を要求している。

 最新の情報を誰よりも早く手にし、しかも整理し自分のものにしておく。そこに才能即ち我々で言う棋才を発現させる部分は極めて少ないと言えそうだ。

 しかし最終的に結論付けるのは吾人であることを考えれば、ミクロの部分での争いが戦いを決する重大な要素になろう。

 野球で言うところの球ぎわの強さが現代の棋士に要求されているわけである。

世代の転換あらや

 さて、いよいよ待望の名人戦が始まる。勝負そのものがどうのこうのの興味より、世代が転換するかどうか、見所はその点である。

 中原を旧世代に編入してしまうのは、当人自身いささか心外の感じを持つかもしれないが、比較の問題だからやむを得ない。

 何しろ年齢差がありすぎる。その若いはずの谷川ですら十代の選手にひたひたと迫まられておたおたしている。恐ろしい時代になったものだ。

 それでも私見によれば、世代の大転換はそうあるものじゃない。旧人に余力がまだ認められ、若手同士競い合っているうち消耗して行くから、全体的に見れば自然な移行状態を示すはずである。

 しかし中原個人に焦点を集めて考えれば、少々辛い情勢が続いている。最もショックを受けたのは王座戦の敗北であろう。遡ってみれば対中村の王将戦二連敗である。最初の敗退こそ相手の棋風をつかめないとか、スタートの不調を理由にできた。

 二度目はちょっと言いわけが利かないし、王座戦にしてから二連勝後の三連敗は、自他共に許す第一人者の自信を揺振るに十分な結果である。

 その後自信回復に勤めている様子が見受けられ、NHK杯戦の優勝など大いに力になったろう。

 棋士には勝つことが何よりの薬である。対して谷川の現況は言うことなしに見えるが、内容はあまり感心したものでなく、危険の兆候なきにしもあらず。

 詰まない将棋を見損じたり、順位戦最終局の敗北などかげりがある。

 勝運に乗っているからいいと言い条、逆にオーバーワークの可能性が強い。付き合いもよさそうなので体力面の調整がこの人の課題であろう。

 体力に欠けると読みが荒くなる。大事な場面で粗雑さが結果を左右するのである。

 技術の上でも光速の寄せがもたつき、気分が悪くなり疲れが残るものだ。早や古びてしまったが、第四十三期の対戦の模様を繙いてみよう。第一局目は丁度私が立会人だったので様子についての記憶がまだ残っている。

 谷川にどことなし余所行きが伺われ、挑戦者ではあるが中原は名人の座に居る雰囲気を備えていた。無理もないことだ。
 将棋は谷川良し、それがだんだん怪しくなる。

(中略)

 寄せに関し定評があったのに指せなかった理由の一つは明らかに疲労である。それをもたらした中原の圧力である。

 私自身の経験で言えば、対大山戦で何度か終盤の苦渋を嘗めたのは、序・中盤の力の入れ過ぎが終盤力を減退させている。また序・中盤でリードしなければ容易に勝てる相手ではなかったのである。

(中略)

 本譜のあともまだ難しく、どちらかと言えば谷川持ちだったし、最悪持将棋があったのだから、気力面でプッツンしたのが即敗局につながった。この期はあと谷川連敗で大勢は決したのだが、一局目の勝負及内容が大きく影響したであろうことは想像に難くない。

 ただ中原とて万全ではない。きめるべきところをきっちりきめられない。いや一時的調子の良し悪しでなく、精神的にも肉体的にも曲り角に来ている。

 私が中学に入った時、上級生は皆大人に見えたものだった。自分達が上級生になってみればどうってことはない、十六、七の少年にしかすぎないのである。

 将棋界に入り、先輩だらけ、三十才から四十才の先輩は近寄り難い存在だし、五十才以上の大先輩は老大家然で、ひたすらたてまつるのみであった。

 いま自分が五十才半ばに達しふと見ればマイクをつかんで離さないようなアホなことを繰り返している。これでも若手から見れば老先生なのだろうか。

 自分の立場、位置など正しく把握することはいかに困難かよく分かる。

 中原名人の強情さはつとに知られる。不得手と見られる作戦にも取り組んでマスターするまで立ち向かう。

 大山振飛車を逆用したり、内藤空中戦を戦ったり、加藤(一)矢倉、米長矢倉のそれぞれ同型にいどんだり実例が多い。その度に結果良しを引き出してきた。

 はたして今回はどうだろう。最近対谷川で連続腰掛け銀を指し連敗している。相当意識しているようだ。

(中略)

  かつて升田、大山が名人戦を争った頃、腰掛け銀無双の升田に対し大山若武者は何度も手痛い目に遭いながら立ち向かって行った。

 腰掛け銀をやったら負けるのにと、局外者は無責任に思っていたのだった。

 天下人たる。天下陣たらんとする者に共通する何かがある。

 しかし自然の摂理はむごいものである。方向転換を図る工夫が、これからの中原将棋を長持ちさせるかどうかの分かれ道になろう。

 もう百五十キロの速球は投げられないんですよ中原さん。

 卒直に言って中原苦戦は目に見えている。

 今期はしのいだとして、来期さらにその次、南、塚田など踵を接して迫られた時受けきれなくなる。

 勿論彼等とて弱点があるのだから冷静に応接して行けば勝負の結果は分からない。

 特に谷川さんの場合は、私の見るところ体力面に多少難があるから、混迷の世界にひっばり込んで長考を余儀なくさせれば勝機に恵まれるはずである。

 速球がなくても変化球があるさ。速戦即決の策戦は恐らく最悪の選択になる気がする。

 対して谷川さんは数年前に比べ、明らかに幅ができた。一発パンチより正確にヒットすることを心掛けているように見える。加えるに度胸のよい指し手が目立つ。

 天成のものと若さがもたらすのだと思うが大舞台では度胸だけでは通じないから溺れないように注意が肝心である。

 以上いろいろ述べたが、総じて中原対谷川ではなく、中原対若手に視点を置いた気がする。あっさり中原が負けてしまえば、それだけコンピューター人間が我々の世界を制する時期が早くなる。単なる世代交代を意味するわけではないと思う。

 中原一人に重荷を負わせていいものだろうか。

 中堅どころの何人かスクラムを組んで防衛機構をはたす責があろう。楽して手に入れたものは決して長持ちしないはずである。

 野次馬的には、どんな将棋を指すのかと言う興味はもとより、常にチャンピオンが苦戦し強者の倒れる日を期待している。

 期待される勝負師像も辛いかな。

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二上達也九段の文章も、味わい深いものが多い。

自身が引退を考え、弟子の羽生善治五段(当時)が順位戦でC級1組に昇級したばかりの頃の記事。

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昔は、「情報量の少なさは、個人に選択の幅を制限させる。大別して大山タイプか升田タイプか、そのどちらかに片寄って行かざるを得ないのである」であったことを初めて知る。

「その辺をふまえて最近の若い棋士は個性派が少なくなったと言われていることに少々疑問を感じる。世の中生活が豊かになるにつれ、争いごとを好まなくなる。自然自分の我をはる要は少ないわけだ。表面は穏やかに見えるし、特に個性をふりまかなくたって差しつかえない。(中略)豊富な情報の中から、自分に合ったものを選び出して行くのだから、むしろ個性、即ち棋風の多様化が図られているのではなかろうか」

たしかに、升田幸三実力制第四代名人、花村元司九段をはじめとする個性派とまではいかなくとも、この時代に若手棋士あるいは奨励会員だった羽生世代の棋士たちは、皆それぞれ充分に個性的だ。

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「昔から老人は、最近の若い者はと言うのが口ぐせみたいなもので、一種のやっかみ心が底にある」

これは名言。

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「情報の流動化と過多状態は、棋才以外の別な能力を要求している。最新の情報を誰よりも早く手にし、しかも整理し自分のものにしておく。(中略)ミクロの部分での争いが戦いを決する重大な要素になろう。野球で言うところの球ぎわの強さが現代の棋士に要求されているわけである」

このことは、コンピュータソフトが研究に取り入れられている現代にも、そのまま当てはまるだろう。

二上九段の洞察があまりにも鋭い。

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「その若いはずの谷川ですら十代の選手にひたひたと迫まられておたおたしている。恐ろしい時代になったものだ」

藤井聡太七段が大活躍をしている現在の状況に似ているが、違うのは「10代の選手」が複数人いたこと。

「世代の大転換はそうあるものじゃない。旧人に余力がまだ認められ、若手同士競い合っているうち消耗して行くから、全体的に見れば自然な移行状態を示すはずである」

これも現在に通じるものがあると思う。

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「私自身の経験で言えば、対大山戦で何度か終盤の苦渋を嘗めたのは、序・中盤の力の入れ過ぎが終盤力を減退させている。また序・中盤でリードしなければ容易に勝てる相手ではなかったのである」

大山康晴十五世名人には苦しめられた二上九段。

大山十五世名人に勝つのが、いかに大変だったが痛いほどわかる。

 

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