先崎学五段(当時)「羽生は、まだ信じられないといった顔つきでボーとしていた」

近代将棋1990年12月号、先崎学五段(当時)の「ことしの名場面、珍場面」より。

ベテランの芸

順位戦▲羽生竜王-△吉田七段

 6月29日

 順位戦の初戦に敗れたのは、今まで挫折を経験したことのない羽生にとっては、今までにないショックだったろう。負けた原因としては、竜王を奪ってから最初の順位戦だったことがあげられる。「上がって当然」「議席の一つは決まり」などの無関係な評論家の言葉が、重荷になっていたことは否めまい。事実、皆が命賭けで頑張る順位戦において、上がって当然なんてことはありえないのである。

 それを実証したのが本局である。羽生は、吉田を相手によもやの敗戦を喫し、昇級を絶望的にしてしまう。

 吉田に限らず、40代から50代のベテランには”この形になれば負けない”というものがある。吉田の場合は、先手番における相掛かりと、後手番の横歩取りである。

 この将棋は千日手指し直しである。羽生の残りは、すでに1時間を切っている。

 その羽生のド肝をぬく手が1図で飛び出した。

 この場面を偶然僕は見ていたのだが、吉田はノータイムで△8六歩と打つと、フン、といった感じで、胸をそらした。対する羽生は、一瞬なにがおきたのか分からないようできょとんとしていた。それでも正座に戻り、少考2分。半信半疑のまま▲同歩と取った。吉田は、またしてもノータイムで△同飛。羽生はトイレに立ち(気を静めたのだろう)席に戻るとすぐに▲8七歩と打った。そこで、どう指すのかと見ていると、吉田はまたしてものノータイムで△8四飛と元の位置にもどした。ようするに、吉田は全く意味のない一手損を敢行したのである。

 このときの羽生の顔は見ものだった。羽生は、まだ信じられないといった顔つきでボーとしていた。しかし、一手損のなかに、長年の蓄積された経験からくる怪しげな雰囲気を感じとったのだろう。羽生の眼は、盤上をキョロキョロとさまよい、体は、興奮しているのだろうか、身をよじり、正座と胡座をいったりきたりしていた。

 ここで冷静になれば、この将棋は羽生が制したであろう。だが、羽生は、中盤で大悪手を指して、一方的に敗れてしまう。

 羽生が投げると(まけました、と大声で言ったので驚いて皆が振り向いた)吉田は躁状態になり、10分くらい、一人で喋りまくり、風のように帰った。

 羽生は、まだ呆然としていて、吉田が帰ったあとも、席に座ったままうつむいていた。納得がいかないようだった。すぐに僕が、いましがた吉田が居た所に座り感想戦がはじまったのだが、1図から一手パスをされて先手番になっても、先手にはあまり有効な手がないのだった。

「指されたときはびっくりしたけど、今見るととがめるのは難しいよ」

 羽生はいう。もう辛そうな顔ではなかった。吉田のベテランの芸に、感服したような、呆れたような、そんな表情だった。終わった後、二人でのみに行ったが、喋ることもなく「またいいこともあるさ」などと言ってすぐ解散した。

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先崎学五段(当時)の「ことしの名場面、珍場面」は11編から成り、近代将棋1990年12月号に一挙掲載。この文章はそのうちの1編。

「ことしの名場面、珍場面」は、第3回将棋ペンクラブ大賞雑誌部門大賞を受賞している。

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昨日の、羽生善治竜王(当時)「ショックが、全身を駆け巡る気がしました」の、先崎五段の視点での記事になる。

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「終わった後、二人でのみに行ったが、喋ることもなく『またいいこともあるさ』などと言ってすぐ解散した」

「またいいこともあるさ」。この言葉は長期的に見れば正しくなる確率は100%に近づくが、短・中期的には当てはまらないことが多い。

羽生竜王の場合も、この年の11月に竜王を失冠している。

竜王を失った直後も、先崎五段と一緒だった。

「一人で行って・・・」