将棋世界1991年7月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 佐藤康光五段の巻」
―将棋を始めたのはいつ頃からでしょうか。
「小学校の1年生の時でした。クラスで5、6人将棋を指す友達がいたので、おそらくその友達に教えてもらったのだと思います。夏がくる頃にはいつの間にか一緒に指していました」
―学校でいうと、休み時間に指していたんですね。
「いえ、休み時間は外で遊んでましたから(笑)」
―と、いうことは、まさか授業中ですか。
「はい、実はそうなんです」
―若手棋士の皆さんは総じて礼儀正しいし、中でも佐藤五段はその筆頭という評判ですから、これには驚きですね。ところで、授業中に将棋を指すといっても、将棋盤はけっこう大きいですし、木の盤駒では音も立ちますよね。そのあたりはどうやってクリアしたのでしょうか。
「木の盤駒は一切使わず、ノートにボールペンで将棋盤を書いて、駒は鉛筆で書いては消すというやり方です」
―なるほど、それなら目立たないし音も立ちません。ただ、この手筋は本誌の読者にまねしてもらっては困りますね。
「勿論です(笑)」
―将棋の本は読んだりしましたか。
「まだ、その頃は本を読むということはなかったですね」
―では、定跡などは知らずに指していたのですか。
「はい、1年生の頃、流行していた戦法は、まず▲5八飛と飛車を真ん中に持って行って、そこから▲4八銀~▲6八銀と両側の銀を上がるんです。みんなその形が一番固いと思っていて、後手の方も全く同じように組んで(1図参照)将棋はここから始まるという感じでした」
―なるほど、その形なら王様の回りには金銀が密集していて固そうですね。なにしろ王手がかかりにくいですものね。しかも、真ん中の歩を突いていけば攻撃力もありそうです。ただ、これも、先ほどのボールペンの将棋盤ではありませんが、読者の皆さんはあまりまねをなさらない方が良さそうですね。
「そうですね(笑)。まだこの頃は、本を読んで定跡を覚えるというレベルではなかったですね。そういうことを知るようになったのは、2年生から3年生にかけての頃からです」
―覚え立ての頃、お父さんとは将棋を指したりしましたか。
「はい、初めの頃は日曜日とかにときどき指していました。父の棋力は今から思うと5級くらいだったと思います。ですからそんなに強くないというか全然弱いんですけど最初はなかなか勝てませんでした」
―やっつけられてばかりだと、いやになりませんでしたか。
「それが、たまに緩めてくれていたみたいで……(笑)。なんかわざと勝たせてくれているみたいだなというのが子ども心にもわかりましたから」
―それは、本当に良いお父さんでしたね。そのご努力がなかったら、今の佐藤五段はなかったかもしれませんものね。
「本当に勝てるようになったのはだいぶ後で、3年生くらいになった頃からでした」
―将棋の道場などには行きませんでしたか。
「2年生の頃からだったと思いますが、近所に将棋の支部の同好会があって、そこに行っていました。その少し前に、父に公民館でやっていた将棋スクールに連れて行ってもらいまして、そこで将棋の支部道場のことを知りました」
―道場にはどれくらい行きましたか。
「そこは月2回しか開いていませんでしたので、それ以上は行けませんでした。そこの支部長の小牧先生に駒落ちで教えてもらっていました。小牧先生は四、五段の実力者でした」
―初めは何級からでしたか。
「それが、どうもその頃の記憶はあやふやなんです。たしか9級からだったと思います。師匠の道場に行きだしてからのことは比較的よく覚えているんですが」
―師匠というと田中魁秀八段ですね。佐藤さんは今は東京に住んでますけど、その頃は京都にいたんでしたね。
「はい。師匠の所に行くようになったのは4年生の頃からです。そこにはボクと同じくらいの歳の子どもが何人も来ていて、みんなでワイワイ言いながら道場に通っていました」
―同年代のライバルがたくさんいるというのは良い刺激になったでしょう。
「特に意識はしてなかったと思いますが、やっぱり競争意識というのはあるでしょうから励みにはなったでしょうね。ただその頃は一緒に将棋を指す仲間がいるということの方が嬉しかったんじゃないかと思います」
―その頃の棋力は?
「当時、道場では、指した将棋の棋譜をつけるのがはやってまして、今でもそれが手元に残っていましたので見てみたら4級でやってましたね。師匠と指した二枚落ちの寄付もあります」
―4級で師匠と二枚落ちでは、下手が相当に辛そうな手合いですね。
「ええ、全然かないませんでした(笑)。勝てるようになったのは初段になる頃からでした」
―4級の頃はどんな将棋を指していましたか。
「原田先生の小学館から出た本で、子ども用の入門書があるんですが、それを読んで中にあった石田流の形が好きになりましてよく指しました」
―石田流というと急戦のものではなくて石田流本組と呼ばれているあの形ですね。(2図参照)
「そうです。ですから、その形に組むために振り飛車をよく指してましたね」
―石田流本組は、攻めの飛角銀桂と守りの金銀3枚のバランスがとれた、一つの理想形と言われている駒組ですね。
「それと、ひねり飛車もよくやりました。あれも石田流の形に導けますから」
―なるほど、出だしは相掛かりの居飛車調ですが、浮き飛車の構えから飛車をひねって、石田流の形になります。
「それでヒドイことやった記憶があるんですよ。一度▲9六歩を突かずに先に▲7七桂と跳ねちゃいまして……(3図参照)。もちろん△8七歩で角が死んじゃいます。思わず待ったをさせてもらいました(笑)」
―ああ、それならひねり飛車をやった人ならたいてい身に覚えがあるんじゃないでしょうか。かかく言う私も全く同じことをしでかした記憶があります(笑)。読者の皆さんには気を付けていただかないといけませんね。
「まだあるんですよ。今度はひねり飛車とは反対側の方を持った時、相手が▲7七桂を跳ねずに▲9七角(4図参照)とやって来てくれたことがあるんです」
―なるほど、△8九飛成で桂をいただきながら飛車が成り込めますね。
「ところが▲9七角に対しては△8九飛成と成ってはだめ、という先入観があって、その時はたしか成らずにそのまま普通に指してしまいました(笑)。▲7七桂と跳ねてある形なら△8九飛成と成るのは、▲8八角と蓋されてまずいのですが、4図のようにただで桂が取れるのなら断然後手よしなのは言うまでもありません。具体的には4図以下、△8九飛成▲8八角には△3二金と角をぶつけられるくらいで先手は収拾が困難です」
―佐藤五段でも初級者のころは、とんでもないことをしていたんですね(笑)。
(中略)
―昇級のペースはどうでしたか。
「道場で、約半年間に1期の割でリーグ戦をやっていまして、そのリーグ戦での成績が良いものが昇級というルールでした。4年生の4月から49月にかけてのリーグ戦で2位になって3級に上がり、翌年の1月に3位で2級、5年生の初め頃に優勝して初段になりました」
―リーグ戦は全部で何人くらい入っていましたか。
「ボク達、級位者のリーグは25人くらいでした」
―ずいぶん多人数ですね。その中で常に上位を占めていたというのは流石ですね。
「いえ、全員が全試合消化するわけではありませんでしたから。勝率よりも勝ち星数がものを言うので、よく出てくる者が有利ということもありました」
―そのころ得意にしていた戦法は何でしたか。
「やはり石田流が好きということで、振り飛車が多かったです。相居飛車や相振り飛車はほとんど指さずに、相手が振り飛車でくればこちらは居飛車というやり方でした」
―大山システムですね。居飛車一辺倒の現在とは全く違うというのが面白いですね。
(中略)
―詰将棋はよくやりましたか。
「易しいやつを少しやったという程度で、詰将棋はあまりやった覚えがないですね。テレビの詰将棋を毎週考えていたようですけど、あんまり解いたという記憶はありません(笑)」
―では、特に終盤とか寄せの勉強はしなかったですか。
「終盤に限らず、中盤の指し方でも、本を読んだりして勉強するというのはほとんどなかったですね」
―本をあまり読まなかったというと強くなるためのエキスは実戦から吸収したわけですね。
「はい、もうほとんど実戦だけといってもいいと思います。実戦と感想戦の繰り返しでした」
―感想戦というのは、将棋が終わった後に行う、お互いの反省会のようなものですね。
「はい。道場でやっている時は、師匠が感想戦を覗いてくれていろいろ意見を言ってくれました」
―それは素晴らしいですね。今、自分が指したばかりの将棋に対して、プロの考え方が直に聞けるんですから……。
「そうですね。毎週土日ですから、今考えると師匠も大変でしたね。生徒はボクだけじゃありませんでしたからね」
―師匠には、稽古もつけてもらっていましたか。
「週1回は教えてもらっていました。4年生の時に初めて教えてもらって1年間くらいはずっと二枚落ちでした。ここでも実戦とその後の手直しが基本で、駒落ちの本はあまり読まなかったです」
―初段になる頃から、勝てるようになったとのことですが、どんなところが良くなったからなんでしょうか。
「将棋が終わってから、ここではこういうふうに指すのが良いとか、いろいろ教えてもらうわけですけど、将棋はちょっとした駒の配置の違いで、ある局面ではすごく良くても、似たようなある局面では悪いということがありますよね。まだ弱い頃は、教えてもらったことは覚えられるんです。ここでは良いと言われれば、なるほどと思い、こういう場合は悪いと言われれば、それもなるほどと思えるんです。でも、それは自分の力で分かってるんじゃなくて、教えられたことを鵜呑みにしている状態に近い状態ですよね。局面によって違う、手の善し悪しの区別が自分なりの考えで分かるようになった頃、初段になれたみたいでした」
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1図の形は、羽生善治九段も将棋を覚えたての頃によく指していたという。
「この型はルールを覚えて間もない人がよく指しているのを見かけるが、何故、多くの人がこの型を指すのか、一度、心理学者の人に調べてほしいものだ」と羽生九段が書いているように、本当に心理学の一つのテーマになっても良いと思う。
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佐藤康光少年の得意戦法の石田流。
そのような意味では、18年前頃によく指された佐藤康光九段の変形振り飛車、2007年に初めて佐藤康光九段によって指されたダイレクト向かい飛車など、そのルーツは子供の頃の棋風によるものなのかもしれない。
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東京・渋谷駅。
ハチ公口から山手線に乗る(改札は1階、ホームは2階)のと、階段で2階に上って2階の改札から山手線に乗るという関係が、三間飛車から石田流とひねり飛車から石田流の関係に似ている。
しかし、最近の渋谷駅の変貌ぶりはものすごく、どこがどうなっているのかわからなくなってきており、現在だと何とも言い難い。
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「原田先生の小学館から出た本で、子ども用の入門書があるんですが、それを読んで中にあった石田流の形が好きになりましてよく指しました」
この原田泰夫九段著の入門書は、『将棋初段への道 (小学館入門百科シリーズ 118)』。
羽生善治少年が表紙で、羽生少年の棋譜が2局分載っている。
当然のことだが、この少年と将来、激戦を繰り広げることになるとは、佐藤少年は想像もしていなかったこと。