内藤國雄九段「やっぱり名人になるほどの人はすることが違うなーと私は感心した」

将棋世界1991年12月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「棋は人なり」より。

 塚田(正夫)さんは、若い私にとって憧れの人であった。何と言っても「塚田詰将棋」の御本尊であり名人になったことのある人である。私が二段のとき、この雲の上の憧れの人と地元新聞社の好意で対局が出来ることになった。手合いは角落、私が中段で飛車を振り回して勝たせてもらったが、局後「受けのしっかりした将棋だね」と、ぽつり言われたのが意外で印象深かった。

 新聞社の偉いさんが塚田さんを高級レストランに案内した。なんなりと仰って下さい、と言われたのに対して塚田さんはすまして言った。「カレーライスを下さい」

 それは塚田詰将棋から受ける、なんとも言えない味わいを思い出させた。

 公式戦で初めて顔が合ったのは私が四段になって間もない頃だった。王将戦の予選で、戦いは組み合ったとたん、ツツーと横に運ばれて土俵の外にポイと放り出されたような感じで終わった。あっけなくて疲労感もなかった。やっぱり違うなと感嘆した。局後、「ここでこう指せばどうですか」と、実戦で迷った末に指せなかった手について質問した。塚田さんは一寸小首をかしげて「一局の将棋だね」と言って、それきりだった。それは高僧に「それも一つの人生じゃ」と諭されたような重みがあって、心にじんと響いた。

 それから10年の歳月が流れて、私は八段になっていた。

 一夜東京で塚田さんと一献傾けた。遅くなって塚田さんは奥さんに迎えにくるように電話をされた。横浜からここまで大変だなという思いが私の脳裏をかすめた。12時近くに奥さんが見えた。すると塚田さんは「帰れ」といって、追い返してしまったのである。やっぱり名人になるほどの人はすることが違うなーと私は感心した。

 それからおよそ20年の歳月が流れる。私も当時の塚田さんに負けない歳になった。

 塚田さんのことを思い出した。それを思い出したのは、心にひっかかるものがあったからである。奥さんを呼び出しておいて帰してしまったのは何故か。そこにどんな感心すべき内容がひそんでいるのか。今はわからないが、いつか分かる時がくるだろう……。

 その時の塚田さんと同じ歳になって、やっとそれが分かった。あれはただの判断力の喪失に過ぎないということ。将棋でいえば”ポカ”の一手であったということである。酩酊が過ぎると判断力をなくするということは私もいやと言うほど経験している。

 このことに気付いたのはよかった。もし塚田さんのポカを好手と勘違いしたままでいたら、いつか私も同じ轍を踏むに違いない。

 深夜愚妻に無駄足を踏ませるという悪手をやらかすに違いなかった。気がついてよかった。

(以下略)

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ものすごく奥が深そうに見えて、実は全くそうではなかった、ということは結構あるもので、塚田正夫名誉十段の奥様呼び出しももその典型例と言えるだろう。

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塚田名誉十段の奥様は、将棋大成会(戦前の将棋連盟)の理事の娘さんで、当時の若手棋士の憧れの女性だったという。

このような場合は、恐妻家になる可能性が高いし、実際もそのようだった。

塚田正夫九段(当時)「いつだったか、観戦記に『塚田九段が気分転換といってストリップを見にいった』と書かれたのが目にとまってね(笑)えらい目にあいましたよ」

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ただし、塚田名誉十段の奥様呼び出しは、素面の時も行われている。ただし、「帰れ」は酔っ払ってからのようなので、迎えに来てもらうつもりが、飲んでいるうちに段々と(もっと長い時間飲んでいたい)と思うようになり、奥様が到着した頃は「帰れ」になる定跡だったのかもしれない。

他の業界でも立派にやっていけそうに見える棋士とそうではない棋士

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将棋世界1972年11月号より、内藤国雄八段(当時)。

将棋世界1973年5月号より。塚田正夫九段(当時)と奥様。