高橋道雄九段「こうして、今期の無念と次期への希望を胸に、その人、その人にとっての竜王戦が終わっていく」

将棋マガジン1991年12月号、高橋道雄九段の「第4期竜王戦に向けて 森下、影に挑む」より。

 9月20日、午後9時38分。

 森下六段の指がしなやかに舞い、角を放つ。

 その手を待っていたかの如く、小林五段投了。

 館内モニターで観戦していた控え室の面々皆、それっとばかりに対局室へなだれ込む。

 誰一人として、興奮した面持ちでいる者はいない。

 勝敗の帰趨は、20手も前から明らかであった。

 すぐに勝利者へのインタビューが始まる。

 シャッター音と飛び交うフラッシュが忙しい。

 機械、人間の別を問わず、すべての視線、および祝福が一斉に彼へ向けられる。

 大勝負に敗れ去った者が、ぽつんと一人、取り残されたような孤独感に襲われるのがこの時だ。

 その屈辱的とも言える時間の流れの中、正座を崩さず、じっと無言で耐えていた小林五段の姿が男らしかった。

 私なら差し詰め、盤上をガチャガチャッとかき混ぜて、プイッと去って……なんてことはするわけない。

 もっとも、ほとぼりが冷めるまでトイレにでも駆け込むことぐらいはしていたかもしれない。

 森下六段の方も、相手を慮ってか表情が硬い。

 新聞用に笑顔を下さい、の注文が飛ぶ。翌朝の新聞を見たら、引きつったような笑顔が載っていた。

 これで、今年において小林五段の竜王戦が終わった。

 本人にしてみれば、ここまで来たからには勝たねばいけなかった、と悔いているだろうし、また勝負師として、そうあって当然。

 しかし、客観的に見れば、挑戦者決定戦まで勝ち上がっただけでも、十二分に称賛されていい。

 最高の棋戦における、最高の3人の中に食い込んだのだから。

 この挑戦者が決定する日まで、他のすべての棋士が、次々と涙を呑み、散っていった。

 今となって”七番勝負”はどうでもいい。今年のプロ野球と竜王戦は終わりにして、早く来期を始めて欲しいと願っている私自身も、本戦入り目前で力尽きた。

 こうして、今期の無念と次期への希望を胸に、その人、その人にとっての竜王戦が終わっていく。

 だが、竜王戦はまだ終わらない。

 勝ち残った者と待ち受ける者。

 両者の竜王戦は、まさにこれからが始まりである。

(以下略)

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将棋世界1991年11月号より。撮影は中野英伴さん。

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森下卓六段(当時)と小林宏五段(当時)で行われた竜王戦挑戦者決定戦。

この期の竜王戦で大活躍した小林宏五段だったが、0勝2敗で敗れることとなった。

上の写真は感想戦の模様だが、小林宏五段の無念の思いが、中野英伴さんによって映し出されている。

「こんなに仲間から好かれ、信頼されている棋士はいない」

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「私なら差し詰め、盤上をガチャガチャッとかき混ぜて、プイッと去って……なんてことはするわけない」

高橋道雄九段の負けず嫌いは昔から有名で、様々なエピソードがあった。

寡黙の向こう側

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「今となって”七番勝負”はどうでもいい。今年のプロ野球と竜王戦は終わりにして、早く来期を始めて欲しいと願っている」

高橋道雄九段は巨人ファンで、この年の巨人はセ・リーグで4位。

「こうして、今期の無念と次期への希望を胸に、その人、その人にとっての竜王戦が終わっていく」

竜王戦以外の棋戦でも同じことが言えるわけだが、高橋道雄九段は竜王戦の前身である十段戦での最後の十段。竜王戦に対する思いもより一層強かったのだろう。