郷田真隆四段(当時)「物ごころついた時には、すでに将棋を指していました」

将棋マガジン1992年9月号、高林譲司さんの第33期王位戦七番勝負第1局〔谷川浩司王位-郷田真隆四段〕観戦記「谷川と郷田、夏の主役」より。

 近鉄特急に乗り、鳥羽を過ぎるとにわかに緑が深くなる。

 やがて左車窓に穏やかな水面が見え隠れし始める。

 海。

 であるはずなのだが、湾が入り組んでいるため、山中の沼かと見まがうほど、静寂の中で小ぢんまりしている。

 ともあれ海である。

 名古屋から2時間近く。海が見えたので目的地は近いでしょう。

 そういうと、谷川王位がいつもの静かな微笑を返して来た。長身を明るい色のスーツが包んでいる。

 石田和雄九段、児玉孝一六段、観戦記担当の中平邦彦さんもいる。

 谷川王位の前の座席で海に関するエッセイを読んでいるのが郷田四段である。今夏の話題を一身に集めた青年棋士。棋聖戦に続いて王位戦―。将棋界はまた新星を世に送り出した。

 鵜方で下車し、車で的矢湾を渡りきると対局場の「伊勢志摩ロイヤルホテル」である。湾とはいえ、これもまた山々の間を縫う河とも見える。その湾を見下ろし、白面の大楼は凛然と立つ。

(中略)

 対局室はホテルの11階最奥の一室。部屋番号は1101。

 まず郷田が姿を見せた。迎える報道関係者たちが無言の中で目を瞠る。その和服姿の美しさに、である。

 着物は梅雨時に時おり垣間見せる空のような渋い青。仙台平のはかまの衣擦れの音が小気味いい。

 郷田は長身である。なおも色白の顔に眉がきりりと太い。

王位戦第1局。将棋世界1992年9月号より、撮影は河井邦彦さん。

 挑戦者決定戦は7月3日。翌夕、勝浦修九段と真部一男八段に新聞用の対談をしてもらった。両者口をそろえたのは、郷田の容姿についてだった。

 勝浦九段は「スター性十分」といい、真部八段は「若くして、対局姿に風格がある」といった。

 そのグレーがかった着物の色を、

 青磁色。

 と、あとで郷田自身が教えてくれた。戦いを挑む青年棋士の色であろう。

 数分して谷川王位。挑戦者にまさる長身、頂点を極めた男の知性と静けさを、谷川はすでに何年も前から身につけている。着物は紺。

王位戦第1局。将棋世界1992年9月号より、撮影は河井邦彦さん。

 名人戦に出ない年は、4、5月に時間が余る。秋から冬、初春と嵐の対局数をこなすから、落差が際立つ。

 今年もそうだった。

 違うところは恵子さんとの出会いだった。

 もし、名人戦に出ていたら―。

 谷川は、この出会いはなかったかもしれないと言っていた。

 我われはまだ1枚の写真でしか、谷川の伴侶となる女性を知らない。しかし一枚の写真でわかる。谷川は素晴らしい女性と出会った。

 上座に着き、ゆっくりした手つきで駒箱をあける。

 谷川を初めて見たのはNHKの将棋番組。まだ坊ちゃん刈りの小学生だった。

NHKに出演した時の谷川浩司少年。将棋世界1972年6月号より。

 その谷川が30歳になった。タイトル戦での相手は、防衛するにせよ挑戦するにせよ、ここ3年ほど後輩ばかりである。

 王位戦に限っても、佐藤康光、中田宏樹、そして郷田。

 谷川はゆっくり盤上に駒を並べていく。郷田が従う。

 並べ終わったところで、記録係の立石径三段が振り駒をした。谷川先手。

 王位戦の夏が、今年も始まったのである。

(中略)

 昼頃に帰った米長九段にかわって先崎学五段が控え室に現れた。すでに形勢もはっきりしており、彼の継ぎ盤はさかのぼった中盤の研究である。

 谷川は▲6二金の詰めろのあと、大清算して▲3一飛成。だが、郷田は正しく詰みを読んでいた。

(中略)

 3局指した時点の棋聖戦は郷田1-2と負け越した。谷川が間合いを知ったとの声も出た。

 それを跳ね返しての王位戦第1局の勝利。勝ち負けが逆なら、郷田大苦境だった。郷田の勝ちで、今年も王位戦は盛り上がりを約束された。

 夏の主役は、とにかく谷川と郷田の二人に尽きる。秋ぐち、どんな結果が待っているだろうか。

 なお、翌日。名古屋駅で「私、消えます」と谷川が我われと別れたことを、こっそり使え加えておく。その日は日曜日。銀行は休みなのである。

* * * * *

将棋世界1992年9月号、高林譲司さんの第33期王位戦七番勝負第2局〔谷川浩司王位-郷田真隆四段〕観戦記「好漢郷田、気概をみせ連勝す」より。

 郷田真隆四段。

 素晴らしい棋士が出て来たものである。

 若い。強い。顔がいい。三拍子そろって間然するところなし。

「物ごころついた時には、すでに将棋を指していました」

 と郷田はいう。最初の師は父親であった。小学校に入学する前から算数のドリル問題を解いていたというから、もともと考えることが好きに生まれついている。プロ棋士の多くは算数、数学にきわめて強い。郷田もなるべくして棋士になったのかもしれない。

 7月10、11日。三重県の「伊勢志摩ロイヤルホテル」で行われた開幕戦。郷田は「青磁色」の和服でさっそうと登場した。棋聖戦ですでにタイトル戦を経験しているということもあろうが、物怖じすることなく、堂々と谷川王位に相対した。

(中略)

 谷川はまだ本調子ではない。もっとも王位戦に限って、ではある。棋聖戦では1敗後に3連勝で、郷田をはじきとばした。

 開幕戦の黒星は、谷川のパターン。前期の中田宏樹五段、前々期の佐藤康光五段(段位は当時)のときも、スタートはいずれも苦しかった。谷川は追い込み型なのである。

 さて第2局である。7月21、22日。函館市湯川町「竹葉亭葉亭」が舞台。贅沢さを落ち着いた風情で包んだ和風旅館である。

 重なると見られていた棋聖戦も、4日前に谷川防衛で決着した。両者、王位戦に全力集中ができる態勢になった。敗れたが、かえって郷田はふっきれたともいえる。

「棋聖戦は納得のいかない将棋を指してしまいました」

―だから王位戦でと、郷田。

 梅雨もあけた。本格的な夏を迎えて気分も新た、である。

 谷川の方は、棋聖防衛で一仕事なし終え、ホッとしたところである。郷田が気合を入れなおしたところで、谷川が肺の中の空気をフーと吐いた。郷田にとって、付け目はその瞬間だろう。第2局はそういう将棋だったような気がする。

(中略)

「できれば違う人と」

 と、七番勝負が始まる前、谷川は言った。棋聖戦に続いて王位戦。同じ相手はちょっと気が重い。

「勉強している人が強い時代」

 とも谷川は言った。郷田の連続挑戦は何ら不思議はないという意味である。

 ともあれ、郷田と集中して対戦することになった初夏から盛夏。矢倉と相掛かりだけでは、いくら好きな食べ物でも胃がもたれる。

 だから四間飛車である。

(中略)

 谷川はここで投了した。以下△8四歩と逃げ道を作っても、▲同金△同玉▲7五馬△8三玉▲8四金△9二玉▲9三歩で詰む。

「負け方がちょっといやだね」と二上九段が言った。谷川2連敗で

ある。

 しかし谷川が追い込み型なのは前述した通り。巻き返しは十分に予想され、第6、7局まで行くというのが大方の意見ではなかろうか。

 いや違う、と思っているのは郷田である。棋聖戦の屈辱を王位戦で雪ぐには、5、6局目辺りで決めたいところだろう。

王位戦第2局。将棋世界同じ号より。撮影は中野英伴さん。

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郷田真隆四段(当時)が、棋聖戦五番勝負に登場してから、将棋世界、近代将棋、将棋マガジンのグラビアでの郷田四段の登場回数が急激に増えてきた。

更に王位戦の挑戦も決めたので、写真での登場はもっと増えていくことになる。

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郷田四段が棋聖戦での挑戦を決めた翌日、谷川浩司四冠(当時)の婚約発表記者会見があった。

3年後、王位戦七番勝負で郷田五段が羽生善治六冠(当時)に挑戦した時も、第3局が終わった3日後に、羽生六冠の婚約記者会見が行われた。

たまたまではあるけれども、谷川九段も羽生九段も、郷田九段の挑戦中に婚約発表をしたということになる。

牧場を訪ねた羽生善治六冠(当時)と郷田真隆五段(当時)