有吉道夫九段「大山先生の想い出」

将棋世界1992年10月号、池崎和記さんの有吉道夫九段インタビュー「大山先生の想い出」より。

―いままで最も思い出に残っていることは何ですか。

有吉やっぱり、タイトル戦の挑戦者になった時ですね。昭和41年の王位戦で私が八段になって2年目の時でした。紅白決戦で、当時「打倒大山」を旗印にしていた山田道美八段を負かして挑戦者になったんです。師匠も喜んでくれました。

―タイトル戦初の師弟戦ですね。

有吉 新聞でも空前絶後と、ずいぶん騒がれました。その時、私は王位をむしり取るというより、晴れの舞台で憧れの大先生と将棋が指せるといううれしさでいっぱいでした。第1局は博多で、私は羽織袴に丸帯をつけて行ったんです。初めての和服で……。

―和服は初めてだったんですか。

有吉 初めてですよ。すでに私らのころは洋服の時代でしたから。で、タイトル戦は初めてでしょう。二日制の将棋で、しかも相手が師匠ですから、私は羽織袴を着てかしこまってやった。その第1局の時、師匠から「そんな帯してたんじゃ疲れるだろうが」と言われ、指し掛けの夜に博多の町に出て、師匠の見立てで博多帯を買っていただいたんです。「明日からこの帯をしなさい」と言われてね。角帯みたいな帯で、丸帯と違ってかさばりませんわね。芯がやわらかくて、しやすい帯でした。以来、私は着物を着るときは、その帯をずっと使っています。

 2局目は小樽で、対局が終わってから私と家内、大山先生ご夫妻、末っ子の京子ちゃんの5人で、ハイヤーを借り切って1週間かけて北海道を一周したことがあるんです。楽しい旅行でした。もっともタイトル戦は1勝4敗でさんざんでしたが(笑)。勝負の迫力より、そういう旅行のほうが思い出は深いですね。

―タイトル戦の師弟戦は、このあともありましたね。

有吉 43年にもう1回、王位戦の挑戦者になり、翌44年は名人戦の挑戦者、そして47年には王将戦の挑戦者になりました。

―名人戦では大山名人をカド番に追い込みました。

有吉 一番入れば上々だと思っていたら、3勝して事件になりました。その時大山先生はファンの方から「お弟子さんに負かされたら引退ですか」と聞かれたらしいです。先生は「なるようになると思っています」と答えられた、ということを私は他のところで聞きました。

―師匠をカド番に追い込んだ時はどんな気分でしたか。

有吉 勝ち越すなんて思ってもいませんでしたから、戸惑いがありましたね。勝とうと思ってやってれば当然「もう一番」ということで張り切るでしょうが、その時はどうしたらいいのか、わからなくなりました。

―師匠と対局するのは、やりにくかったでしょうね。

有吉 師弟戦というのは、強いほうがやりにくいと思うんですよ。私がやりにくくなかったと言えばウソになりますが、でも師匠のほうが何倍もやりにくかっただろうと思いますね。

(中略)

―大山将棋はマネできませんか。

有吉 できませんね。大山先生の将棋で私が一番感心したのは「駒が出ていく時に引くことも考えている」ということです。私なんか、出ていく時は後へ帰らん(笑)という感じで突貫していきます。それが攻めに迫力があると思いますからね。ところが大山先生は、出ていくと困るから引く、と大きな目で指されている。大山先生は銀が二枚並ぶ形、銀矢倉みたいな将棋がわりあい好きでね。振り飛車をやられる前は居飛車党でしたからね。例えば4七の銀を5六に上がってから、6七に引くでしょう。4七に上がった時、すでに6七へ引くことも考えてるわけですよ。それが印象に残っています。もう一つ、先生は「将棋の形というのは十までやってはダメだ、八分通りまでが一番いい」とおっしゃってましたね。最善形にしないほうがいいと。

―それはどういう意味ですか。

有吉 最善形にすると後は自分の裁量でどうにでもやれると。それが十までやっちゃうと選択の余地がなくなっちゃうでしょう。先生は「八分で置いとけ。私の将棋はそうだ」と、よくおっしゃってましたね」

(中略)

―現在、東京と大阪にある将棋会館は大山先生の尽力でできたそうですね。

有吉 ええ、そうです。先生は東京の将棋会館を造られたあと、すぐ大阪の将棋会館の建設に回られたんです。連盟はお金がないですからファンや財界の基金でできたんですが、大山先生がその機関車役でした。東京の将棋会館を建てる時は、たまたま高輪に日本棋院の空き家があって、そこを臨時に借りて私たちも対局してたんですが、大山先生は朝9時に来られて職員と二人で資金集めに出かけられました。夕方6時に帰ってきて反省会をやり、明日はどこどこへ行こうと決められて。そういうお姿によくお目にかかりました。先生は手空きのときは一生懸命、外を回っておられたんですよ。それで東京の会館ができてから1年もしないうちに、「今度は大阪をやろう」と言われたんです。みんなビックリして「これは大山先生、少し指し過ぎじゃないか」と。というのは東京が済んで大阪といっても、将棋ファンというのは東京も大阪も同じでしょう。東京のときは日本で一つの会館ということで賛同を得やすいけど、大阪は二つ目ですからね。当時、私は周囲から「大山先生に”もう少したってからのほうがいいんじゃないか”と言ってほしい」と言われたことがあります。それで先生に「いまはあまり景気も良くないかし、東京の会館が建ったばかりだから、どうなんですか」と聞いたことがあります。そしたら先生は「大変なのはよくわかっている。時期が悪いって言ったら、いつだっていい時はないんだ。やろうと思った時が一番いい時期なんだよ。自分が元気な間でないと、大阪に会館はできないよ」と言われました。私は「先生がそこまでおっしゃるなら」と言うしかなかった。それでおやりになったんです。でも、やるといってもお金がないわけでしょう。土地もない。しかし会館がどこに建つか曖昧模糊としてたんじゃ仕方がないというので、まず土地を確保しようとなった。それと並行して土地を買う資金を何とかしなけりゃいかんと。つまり二つの難題があったんです。

―土地探しから始めなければいけないのだから大変だったでしょう。

有吉 お金はなかなか集まりませんでした。そこで大山先生が「記念免状を発行してまかなおう」というアイデアを出されたんです。木村、大山、中原の三名人が署名した特別記念免状ですよ。ところが、この記念免状は当時の棋士に評判が悪くてね。免状は将棋の先生に習って取る、というのが建前ですからね。それが簡単に出てしまうとなると「免状は賞品か。お金を出せば買えるのか」となっちゃうわけでしょう。そう思われるのは心外だ、というので反対意見も多かったんです。これは当時の大山先生だからできたんです。

―現実には、それで土地を買うお金ができた。建物の時はどうしたんですか。

有吉 ファンの浄財はとりろんですが、財界とか、そういう大口のところも大事ですわね。一つのエピソードですが「だれのところに一番最初に行こうか」となった時、大山先生は「大阪で一番お金の出そうでない人のところへ行こう。その人が出せば、他の人も”あれが出すんだからしょうがないや”ということで出すだろう」と言われました。それで最初に行ったのが、大阪マルビルのオーナー、吉本晴彦さんのところでした。

―”大日本ドケチ教”の教祖ですね。

有吉 私と大山先生でマルビルの事務所に行ったら秘書の方が麦茶を持って来られ、吉本さんの第一声が「あなたたちは特別待遇のお客さんです。いままで、お茶なんか出したことは一回もないですよ」でした。大山先生が「福島区に将棋会館を建てます。吉本さんがお金を出してくれたら非常に集めやすいから、名前がほしい」と言ったら、吉本さんは「名前は書いてもいいけど、お金は出しませんよ。私の教義に反する」と。でも大山先生も「そこを何とか」と譲りません。結局、吉本さんは「しょうがない。それじゃあ10万円出しましょう。ただし奉加帳にそう書くだけで、お金は出しませんよ。私が10万出したと書けば”あのケチが出した”ということで、50万円にも100万円にもなりますから」。大山先生は笑い出しましてね。「それで結構です」と言ったら、吉本さんは「絶対にお金を取りにきちゃ困りますよ。有吉さん、証人になってください(笑)」。

―ケチが徹底してますね(笑)。

有吉 まあ、そういうことで、大山先生は暑い時でも寒い時でも、あちこち回って資金集めに奔走されたんです。

―それで関西将棋会館ができた。

有吉 大山先生は終生、大阪のことが頭から離れなかったですね。12歳で小学校を卒業してから20歳ごろまで木見金治郎先生のおうちにおられましたから。自分が修行した大阪という場所に生涯を通じて特別な感情を抱いておられました。

(以下略)

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1992年3月、A級順位戦最終局の日の控え室での師弟。将棋世界1992年5月号、撮影は弦巻勝さん。

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「そんな帯してたんじゃ疲れるだろうが」

タイトル戦、対局の1日目の夜に、挑戦者であり弟子でもある有吉道夫八段(当時)のために帯をプレゼントした大山康晴十五世名人。

54年前の師弟の物語。

この時の王位戦七番勝負は、大山十五世名人が4勝1敗で防衛している。

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「師弟戦というのは、強いほうがやりにくいと思うんですよ」

これは、実際に師弟間でタイトル戦を何度も経験したからこそ導き出されたことだと思う。

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「駒が出ていく時に引くことも考えている」

実行するのは難しそうだが、場面によってはアマチュアにとっても参考になることかもしれない。

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「将棋の形というのは十までやってはダメだ、八分通りまでが一番いい」

これは真似のしようがないほど難しそうだ。

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「大変なのはよくわかっている。時期が悪いって言ったら、いつだっていい時はないんだ。やろうと思った時が一番いい時期なんだよ。自分が元気な間でないと、大阪に会館はできないよ」

やろうと思った時が一番いい時期。

本当にいい言葉だと思う。

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「記念免状を発行してまかなおう」

その時のことが、次の記事で書かれている。

関西将棋会館建設の時のこと(1980年)

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「それで最初に行ったのが、大阪マルビルのオーナー、吉本晴彦さんのところでした」

大阪マルビルは、大阪駅前から見える薄茶色の円筒形のビル。

大日本ドケチ教については、次の記事に詳しい。

全日本ドケチ教 吉本氏の教え(家訓二スト協会)

理不尽にドケチというわけでもなかったようだ。

「しょうがない。それじゃあ10万円出しましょう。ただし奉加帳にそう書くだけで、お金は出しませんよ。私が10万出したと書けば”あのケチが出した”ということで、50万円にも100万円にもなりますから」

奉加帳に名前を書くだけで価値を生み出すのだから、凄いレバレッジ効果だ。

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「大阪で一番お金の出そうでない人のところへ行こう。その人が出せば、他の人も”あれが出すんだからしょうがないや”ということで出すだろう」

の大山流が功を成し、関西系の企業では、松下電器産業 600万円、関西電力 500万円、読売新聞大阪本社 500万円、などの寄付が実現された。