「棋士は食事を勝負に変える」

将棋世界1994年3月号、中平邦彦さんの巻頭随筆「様々な晩餐会」より。

 それは、本物の海亀のスープから始まった。ワインは年代物のクロ・ヴィージョ。そして、キャビアのドミトフ風には、ヴーヴ・クリコの白ワイン。

 名画「バベットの晩餐会」は19世紀の後半、デンマークの小さな漁村が舞台だ。伝道者の姉妹の家に、パリ革命から逃れてきたフランス人女性バベットが身を寄せる。

 長い年月がたち、メイドとして仕えてきたバベットは宝クジで大金を手にするが、その金をすべて注ぎ込んで貧しい村人たちに豪勢な晩餐をふるまう。

 伝道の集会にくる村人たちも年を取り、気難しくなり、信仰より言い争いが増え、伝道者が心痛めているのを知っていたからだった。バベットはかつて、パリの名シェフだった。

 飲み、かつ食べる人たち。とがった神経は和らぎ、やすらぎの感情が満ちてくる。ウズラのパイに寄せる至福の表情。料理が人々の心に優しさを生み、感謝を生み、言葉を生ませた。

「この世からあの世へ持っていけるものは、与えたものだけだ」

 そんな、ドキリとする言葉が出るのである。バベットは天才であり、料理とは、まぎれもなく芸術なんだなと思わせる。

 バベットは「食事を恋愛に変える」女性と言われていた。ははんと思った。これを棋士にあてはめたら「食事を勝負に変える」ということになるのだろう。

 タイトル戦は各地の有名旅館やホテルで行われ、自慢の最高級料理が出される。しかし、勝負がかかっている棋士にとっては、食べてはいるが、心やすらぐほど味わってはいまい。だから、本当に味わおうと思った棋士は、プライベートの時に出掛け直す。

 大切なことは、味わえずとも、しっかり食べることだ。体力保持もあるが、相手に食欲を見せること。平常心だと見せること。とくに負けたあとの飲み方、食べ方は大切で、弱みを見せたら次の勝負に影響大である。

 米長名人誕生の朝、勝利の酒が残る米長は味噌汁だけだったが、負けた中原はごはんのお代わりをした。

「そのお代わりは、敗戦のショックなんかないぞ、次は勝ってみせるという気持ちの表れ。すごいなあと思った」と谷川が語っている。戦っている人だからそれが見える。

 バベットは力の限りを尽くして客を幸福にした。棋士も力の限りを尽くしてファンを魅せる。真の姿が表面に出ない点が似ている。

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『バベットの晩餐会』を観てからこの記事を書こうと思っていたのだが、そうこうしているうちにAmazonプライムで簡単に見ることができなくなり、今日に至ってしまった。

とにかくいい映画らしい。

湯川恵子さんがお勧めの映画で、1995年前後の将棋パソコン通信での湯川さんのハンドル名が「バベッド」だったほど。

「この世からあの世へ持っていけるものは、与えたものだけだ」

とても考えさせられる言葉だ。

 

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