雀荘マサキ

野獣猛進流、泉正樹七段の少年時代。

近代将棋1998年12月号、泉正樹七段の「21世紀の初段をめざせ」より。

 先月号でもちらっとお伝えした通り、昨今は勤勉かつ健全な生活で野獣の血が騒ぐ様子もない。ゴルフや酒場への回数の減り具合もさることながら、見事に変化を遂げたのが麻雀生活。覚えたての17の頃は麻雀のパイを見ない日がなかった。自分がやらなくても8畳一間のアパート部屋が将棋関係者の出入りする雀荘だった訳なので…。

20年も前の奨励会員だったら、大抵のものは先輩たちから日々の遊び方や酒の飲み方をくまなくおそわったもので、そういう上下関係が厳しい勝負の世界の空気を和らげていた。

奨励会の対局が終わると「雀荘マサキ」は勝負に飢えた野獣達で大賑わい。

雀台は一卓しかないので先陣争いはいつも熾烈。5番目以降の到着では次局からの参加となるからだ。当然観ているだけでは我慢しきれず「オイチョカブ」「ブラックジャック」などカードを使ったバクチも人気だった。

多い時は両手がふさがるにぎわいをみせるので、麻雀がまだ弱かったせいもあり、ラーメンやコーヒーを作るマスター役に専念。なにしろ雀代やゲーム代が安いからお金に困っている奨励会員や棋士には格好の溜まり場だった。

習慣というものは恐ろしい。週に2、3度こういった状況下に置かれていたので頭の中は麻雀パイとカードの数字ばかりに支配され、将棋の駒を持つ機会が当然ながら少なくなっていった。

麻雀の腕は日増しにメキメキ上がり、マリオ先輩(武者野七段)からは麻雀のプロも目指せと変な激励もされた。

(中略)

将棋の棋譜そっちのけでパイ譜を並べていては将棋の方は無残。勝率4割ぐらいしかなかったが、奨励会はいい所取りの昇級規定だったので運良くたすかった。現在の三段リーグだったら間違いなく四段にはなれなかった。「雀荘マサキ」の生活は1年近く続いたが、みんなの小銭を集めながら育てていた兄貴分の滝先生(誠一郎七段)が突然、「こんな腐った生活ばかりしていたら、オマエラみんなダメになるぞ! これがあるからいけないんだ」といって雀卓と麻雀パイをどこかに捨て?にいってしまった。

当時滝先生は大阪から移籍してきたバリバリの若手棋士。将棋も勝ちまくっていたが、麻雀はほとんど負けなし。大阪のブー麻雀で鍛えた”スピード打法”は他の追随を許さない。”ムシャノ理論”でさえも一歩及ばず。”麻雀地獄”の中にあって滝先生の生活だけは健康的。「麻雀はやってもいいが徹夜はよせ」といっていたし、対局後の酒などもそこそこにしてたようだから。

朝はサラリーマン並みに勤勉で、8時ごろには一人起き出し、尊敬する笹川良一先生の所にさっそうと出かけていくのです。

必ず夕方の5時には戻ってきたが、いつも口にすることは「俺はまだ人間が甘い!! 笹川先生ありがとう」であった。聞くところによると川にサイフの中身をありったけ流すのが趣味らしく、帰ってきてしばらくは「ガクッガクッ」と、首の骨を折った人のようなしぐさばかりやっていた。

20年経った今も滝先生は麻雀パイ等をどこへ捨てたか明らかにしていないが、ほとんど同じ時期に小滝さん(野獣の親友)のかなり高価であろう腕時計を質屋に入れ、また川に出かけていったから想像しなくても”捨てられた麻雀パイ”の謎は簡単に解ける。

部屋でできなくなってからは新宿の天狗道場の下の階の東舟という雀荘に入りびたる。道場に来るお客さんはたいがい麻雀好き。18歳程度のガキが大のおとな相手に暴れまわる。

そんなえげつない現場を勝浦先生(修九段)には何度となく目撃され見逃されている。ちなみに当時勝浦先生は、麻雀放浪記をものにした作家の阿佐田哲也先生に「芸術的にきれいな打ち筋」と絶賛されており、野獣少年の目標とする棋士像そのものであった。

そういえば他の遊び仲間も勝浦先生の好む洋もくをマネして吸っていたから奨励会員のあこがれの的でもあったのだ。

つづく

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この文章が書かれた当時は、勝浦修九段、滝誠一郎七段とも日本将棋連盟の理事だったので面白さは倍増する。

阿久津主税七段の師匠でもある滝誠一郎七段の趣味は「競艇」。

泉七段の文中、”「ガクッガクッ」と、首の骨を折った人のようなしぐさ”というのは、本当に目に浮かぶようだ。

昨年5月の将棋ペンクラブ交流会には滝七段にも来ていただいたが、滝七段が将棋会館4階エレベータ前で競艇の話をしている時も、首をガクッガクッと動かしていた。

滝七段は、当時の多くの若手棋士たちの良き兄貴分的存在だった。