振らぬなら、振らせてみよう(後編)

将棋マガジン1990年4月号、リレーエッセイ「忘れ得ぬ局面、忘れたい局面 先崎学四段の巻」より。昨日の続き。

 だが、この夢は素敵なヒントをおれに与えてくれた。「振らぬなら、振らせてみよう」

―この手があったじゃないか。

 その結果生まれたのが1図。勿論意表を衝くだけでなく、丸三日十分研究した。絶対に悪くならない自信があった。具体的にいうと、銀冠と位取りと、急戦の三段構えで指すのである。

 また△3二金と指せば、彼の性格では、100%振ってくると思った。居飛車でくるなんて考えられない。だから研究し易かった。

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 この将棋は、四間飛車対玉頭位取りの基本型のようになり、運良く勝つことができた。嬉しかった。優勝という二文字より、ライバルに勝ったことが―。

 賞金は四十万円。早速次の日から○○、○、○○○○と使いまくりすぐなくなった。

 おれは、この手を何度も使う気だった。何より相手をカッカさせられるのが面白い。喜怒哀楽は、勝負には禁物なのだ。

 だが、悲しいかなもう使えない。二度と指すこともあるまい。何故だろうか―?

 この年の十一月、またしても図が現れた。金を上がったのは浦野六段。順位戦の昇級争いの大一番、相手は名にしおう羽生善治―舞台役者が揃った感じである。

 この将棋は1図以下▲5六歩16△5四歩29▲6八銀7△3四歩2▲6六歩と進んだ(指し手の右は消費時間)

 ここで問題なのは、三手目の▲5六歩という手である。何の変哲もない手にみえるが、実はこの手、凄い好手なのである。

 難しすぎるし、長くなるので一々説明しないが、▲5六歩△5四歩の交換をしてから中飛車にすれば、腰掛銀に出来ない。とだけ書いておこう。

 次の△5四歩29分という数字が、この手がいかに好手だったか物語っている。

 指されてみれば他愛もない手なのだが、対佐藤戦のときの研究では全く気付かなかった。あの三日間、自分なりにない智恵を絞って色々考えた。ある変化では、詰みまで研究した策である。だが、この一手で先手優勢だとすると、いったいあの研究は何だったのだろう。

 佐藤康光が、この手に気付かなかったのも無理はあるまい。おそらく、彼は頭に血が昇ってゆでダコになっていたはずだ。

 そのような状態で、筋道立てて、物が考えられるはずがない。

 だが羽生はどうだ。おそらく16分、冷静に考え▲5六歩が最善ではないかという勘が働いたのだ。何という冷静さ、何という感性であろうか。

 ―おれより強いな、と思った。勝てないな、とも感じた。生まれて初めて、絶望という名の砂を少しかんだような気がした。

 以来、この畏友の顔を直視出来ない。囲碁は互先だが、その他では一目置いてしまう。

 先日、羽生君の家に遊びに行った時のこと、よく整理された部屋だったが、囲碁の本だけ机の上に無造作に置いてあるのである。しかも手垢で汚れている。ゾッとした。この分では囲碁ですらも一目置かされるかも―

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1970年代初頭に出版されていた伊達二郎六段著「将棋実力テスト問題集」という、級位者の実力養成には最適な次の一手問題集があった。

1図はその2問目だったと思う。

その本での正解は▲7五歩。

振飛車の理想形と当時言われていた石田流本組みに組めることが確定するからだ。

しかし、1971年頃から石田流本組みに対しては様々な対抗策が現われ、石田流本組みの貴重性がどんどん失われることとなった。

石田流の悲劇(前編)

石田流の悲劇(後編)

個人的には寂しい出来事である。

ところで伊達二郎は、当時の有名なアマ強豪であるSN氏のペンネームであったと言われている。