将棋マガジン1990年1月号、安部譲二さんの「負けても懲りない12番」より。(図は新たに加えたものです)
私はその日の朝、四時半までのテレビに出たので、そのまま都内のホテルに泊まって、原稿を書いてから、二枚落ち定跡を用意して来た盤に並べてみた。
角道を開けて、上手の銀が出て来るのに構わず、まず4筋の歩を伸ばすと、次には3筋の歩も伸ばす。
上手は角行が睨んでいるから、仕方なく金銀二枚を2二と3二に貼りつけなければならない。
四枚しかない金銀のうち二枚を、守り専用に使うのだから、これだけでも上手は大変だ。
銀を途中まで進めると飛車を3筋に据えて、歩を切って浮くと蟹囲いに玉を入れる。
上手は6筋と7筋の歩を進めて、金が上がると桂馬が跳ねたが、私も銀を繰り出して4筋で歩と銀を取り合って、跳び出した角行は古巣の8八には戻らないで2六に飛車と並ぶ。
上手は私の総攻撃が始まるのを、ただ待つしかないから、弱きを助け強きを挫くのが身に沁みている私なので、ちょっとためらった。
これではいけない。
上手は裸で目をつむって両手を胸の上で組み、夜具の上に寝て、男がのしかかって来る瞬間に脅え、小刻みに肌を震わせている少女だ。
仏心を出したりすれば、この娘はたちまち鼻の穴をふくらませて、男達が討ち死にした古戦場に生えている茶褐色の淫草をそよがせると、これまで何百何千という球を、握り潰した掌を伸ばして来る。
上手はおののく少女に化けて、相手をおびき寄せると、突然、本性を現す妖怪なのだ。
怖れおののいて、絶望の中で7筋の歩を取って金が進んで来たのを、歩を打って追い払ったのに、気を許してはいけない。
おびえた少女が眉をひそめてあがくのを、目を細めて見ていたりすると、命取りになる。
数え切れない男を、散々な目に遭わせ続けた妖怪なのだから、少女の姿をしているうちに、片付けてしまうことだ。
足首を摑んで両側に思い切って開きながら、一気に楔を打ち込もうと、私は上手の金に銀を叩きつけて歩を進めて、王将を吊りあげる。
飛車をタダであげると角行を切って、銀を手に入れると、それをおびき出した王将の斜め後ろに打った。
少女はこうなると、もう妖怪には戻れなくなるから、「ね、優しくして……」と、慈悲を願う。
上手の王将が私の打った銀で縛られて、参っているのを、見詰めていた私は、大きく頷くとホテルの部屋を出た。
米長邦雄九段が少女でいる間にやっつけないと、妖怪に戻られたら、もうその場面でどうしようもなくなってしまうに違いない。
(以下略)
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作家の安部譲二さんが12人の棋士に2枚落ちで挑戦する「負けても懲りない12番」。
1番目に登場する棋士は米長邦雄九段。
この文章は、将棋連盟へ向かう直前に安部譲二さんが二枚落ちの二歩突っ切り定跡をおさらいしている様子が描かれたものだ。
安部譲二さんは、元ヤクザの経歴を持つ作家で、1986年の「塀の中の懲りない面々」が大ヒット作となった。
安部譲二さんにしかできないような二枚落ち定跡の描写だ。
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しかし、現実はこのようには推移せず、下手が敗れることとなる。
12戦、毎回二歩突っ切りで安部さんの2勝8敗2引き分け。
銀多伝を安部譲二さんが表現したらどうなるのか興味深いところだ。
銀多伝は、家中に魔除けのお札を貼ってじっと待つような戦法だから、少女の出番はないかもしれない。