将棋マガジン1990年2月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。
さて、大山~塚田戦である。
大山の自在な指し回しに対し、塚田は硬くなったか、指し方がギコチなく、と金作りを間に合わされて苦戦の感じだ。それでも、千日手含みで頑張る。
その手順が繰り返されているとき、私は盤側で大山を見ていた。勝負将棋を戦う場面は、この先そう多くは見られないだろうから。
大山は塚田が考えている間、となりの二上~森戦の感想戦を見ながら、口をはさんでいた。寄せを読み切っている、と思ったが、後で考えると、千日手にするつもりだったのだ。
午後10時30分、千日手が成立した。
深夜の指し直しになるが、大山は体力でも負けない、の自信があった。でなければ、打開しただろう。結果論になるが、指し直しになれば負けるとの自覚があれば、寄せに行き、勝てたかもしれない。研究では寄っていた。
それを指し直そうというのは、負けなければ、の考え方で、体力だけでなく、棋力にも自信がある証拠である。
比べるのもおこがましいが、あえて書けば、私も羽生戦で同じ経験をした。勝ちありと読んで寄せにかかったら千日手含みで粘られた。そのとき、私は、指し直しになれば負ける、ここで寄せ切る以外にチャンスはない、の強迫観念にとらわれ、千日手をさけることしか頭になかった。結果は寄せがなく、受けに回って、敵陣一段目まで玉が逃げたが、チェスでないから、そうなったからといって勝ちではない。
先崎いわく「羽生さんに教えてもらう機会なんて、めったにないからもう一番指す一手でしょう」。
(中略)
さて、大山~塚田戦は第11図。控え室にはまだ10人あまりの棋士が残っていた。仕掛けはしたものの、うまく行きそうもない、との評判である。
▲6八飛△8六歩▲同歩△6六歩▲同銀△6五歩▲5七銀△7七角成▲同桂△2二角
右の手順は必然。△2二角で△8六飛は、▲9五角でも、▲5五歩△同銀▲6五桂でも後手が悪い。攻めがうすいのだ。
控え室の継ぎ盤を、羽生、森内、佐藤(康)が囲っている。他に、青野、田中(寅)もいて、最強の解説陣である。その面々が上図を調べて、▲6四角で先手よし、と言った。
▲6四角に△6三金なら、▲6五桂△同銀▲同飛△同桂▲8二角成△5七桂成▲同金で先手よし。他にも変化があるが、いずれも先手がよい。
大山は、ここではじめて時間を使った。
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当時の最強の検討陣!
”控え室の継ぎ盤を、羽生、森内、佐藤(康)が囲っている。”
聞いただけで鳥肌が立ってくるような控え室。
それにしても▲6四角からの攻めは、居飛車側からの攻め手の反動を利用した、いかにも四間飛車らしい捌き。
この▲6五桂と跳んだ瞬間などは、振り飛車党にとっては鳥肌ものだ。
ところが本譜は・・・
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▲5五歩△同角▲6七飛△8六飛▲5六銀△4六角▲3七桂△7六飛▲4七金△7九角成
さっき言った、▲6四角は第一感の手である。大山に見えなかったはずはないが、なぜ指さなかったのだろう。
▲5五歩は軽すぎた。以下、塚田に△7六飛とうまく指され、△7九角成とされては、いっぺんに苦しくなった。
いったいどうなったんだ一同唖然としたものである。
後で大山は財布を落としたような、バカバカしい気持ちになったのではないか。上図は振り飛車党にすれば理想的な展開だったのだから。
(以下略)
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財布を落としたようなバカバカしい気持ち。
とても実感がこもっている。
この後、大山十五世名人は形勢をやや挽回するが、敗れてしまう。
「一度目のチャンスは見送る」という言葉があるが、見送るにはあまりに惜しいチャンスだったのだと思う。