木村一基五段(当時)「いやあ、ひどい目に遭いました」

将棋世界2002年1月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 大崎善生君が『将棋の子』で講談社ノンフィクション賞を受賞し、東京會舘で授賞式があった。

 出かけると、例年とちがって将棋界関係者がやたら多い。文壇のパーティーのつもりで来たので、面食らってしまった。大崎君も今や文壇のスター作家である。作家へ転じたのは大成功だった。

 その翌日、今度は新宿の京王プラザホテルで「宮田敦史君の四段昇段を祝う会」があった。主催している所司六段もよく頑張っている。時節柄、こういった会を開くのは大変なのである。

 すこしでも応援になればと行ったら、木村五段も来ていた。たしか、昨日も顔を見かけたので「ご苦労さん」と声をかけたら「いやあ、ひどい目に遭いました」と苦笑した。ひどい目に遭った、は棋士の口ぐせだが、話を聞くと、本当にひどかったらしい。パーティーの後、知り合いの編集者と銀座で飲んだら、その編集者の具合がわるくなり、築地の病院にかつぎこんで、結局朝までつきそった。

「だから背広も替えてないんです。そしてここに来たら、松尾君のお祝い(新人王戦優勝)もやってるじゃないですか。2局目に私が勝ってれば、今日が第3局のはずだったのに……。参ったな」

 木村君の泣く気持ちもわかる。しかし将棋界では、こうした付き合いが、後になって物を言うのである。

(以下略)

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木村一基五段(当時)は、この年の9月の竜王戦挑戦者決定三番勝負で羽生善治四冠(当時)に1勝2敗で敗れ、その後の新人王戦決勝三番勝負では松尾歩四段(当時)に0勝2敗で敗れている。

木村一基五段(当時)「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」

木村一基五段が「2局目に私が勝ってれば、今日が第3局のはずだったのに……」と言っているのは、この新人王戦決勝三番勝負のこと。

死んだ子の年を数える、ではないが、このように思う気持ちは痛いほどわかる。

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昭和の終盤の頃のこと。

私は仕事で、毎週月曜日の夜、あるテレビ局の生番組が行われるスタジオに詰めていた。私が番組に出演するわけではなく、番組内の1コーナーで利用されるシステムの担当営業として、生番組に立ち会っていたのだった。

システムの提案段階から様々な意味で思い入れのある仕事だった。

番組が始まったのが4月の桜の花咲く頃。

5分間ほどのコーナーだったが、生放送の中で何事もなく無事に動いてほしいという緊張感は想像以上のもので、番組が終わった後は必ずそのまま飲みに行ってクールダウンさせていたものだった。

半年間の放送予定だったので、最終回は9月24日の振替休日。

最終回の日は、休みの日なので一人で飲みに行ける店は開いていないことだし、テレビ局から自宅まで感傷的な気分になりながら歩いて帰ろうと予定を立てた。秋の入口の頃だし、頭の中で流れる音楽はカーペンターズの「スーパースター」が最適だと思った。

・・・しかし、全盛期の『水戸黄門』の裏番組ということもあったのだろうが、その番組の視聴率は良くなく、6月で放送は打ち切りとなってしまった。

6月の最終回の日の番組が終わった後、寂しい気分になりながら飲みに行ったと思う。

放送局には幽霊がよく出るという噂があったが、この時の私のように、夢半ばで(私は夢を持っていたわけではないが)スタジオから離れていった俳優、女優、モデル、ミュージシャンなど、それらの思いを残した人達の生霊が放送局内を憑依しているのが幽霊の実態なのではないか、と考えながら酒を飲んでいた。

どちらにしても、「スーパースター」を頭の中で流し続けながら家まで感傷的になりながら歩いて帰る、という目論見は崩れた。

それから3ヵ月後、9月24日(月曜・休日)はやってきた。

家でゴロゴロしながら(ああ、今日だったな)と思い出す。

これからスーツに着替えて、テレビ局の近所まで行って、そこから歩いて家に戻ってみようかとも一瞬考えたが、あまりにも酔狂すぎると思ったし、モチベーションも上がらなかったので、そのまま家でゴロゴロしていることにした。

自分は、死んだ子の年を数えるタイプなんだな、と気付いた時でもあった。

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その後、(今日は本来は○○があるはずの日だったんだな)と思いようなことは起きていない。

しかし、この時の、「スーパースター」を頭の中で流し続けながら家まで感傷的になりながら歩いて帰る、という思いは深層心理に残っていたようで、数年後、思わぬところで「スーパースター」と口走ってしまうことになる。

今の私なら、ブロンディの「コール・ミー」と言うだろうなと思う。

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