将棋世界1991年1月号、谷川浩司王位(当時)の「ドイツへの旅」より。
この期の竜王戦第1局(羽生善治竜王-谷川浩司王位)が、フランクフルトで行われた。
ドイツは良かった。最高だった。
景色は綺麗だったし、ビールやワインは美味しかったし、将棋も勝ったし。
否、もし負けていたとしても、ドイツは最高だったと思うに違いない。
出発する前に、海外旅行は癖になると誰かに言われたが、正にその通りである。
でもなかなかその暇がないな、と考えていると編集部よりTELあり。
「ドイツの紀行文を書いて下さい」
全く、この忙しい時によくも無理難題を言ってくれるものである。
というわけで、今月は自戦解説ならぬ旅行解説。
こんなことなら、林葉直子に色々とネタを教えるんじゃなかった。
10月16日(火)
14時 成田を出発。これからフランクフルトに向けて、12時間のフライトである。
昨日は米長王将との順位戦。対局前に、「いい気分で出発しようと思っているだろうけど、そうはいかないからな」と宣言された通りの結果になってしまったが、指し手に自分の主張を通すことができたので悔しさはなかった。
機内食は2回。じっとしているせいかどうも食欲がない。
そして退屈である。疲れているはずなのに、一睡もできないのには参った。
18時(日本時間17日2時)フランクフルトへ定刻に到着。
荷物のターンテーブルで少々手間取ったが、入国審査は、駅の改札で定期を見せるようなもので、拍子抜けだった。
もっとも、後で兄に聞くと、イギリス以外のヨーロッパは大体そうだとか。
19時 ホテルインターコンチネンタルに到着。
カードキーで部屋に入ろうとすると、ルームメードのおばさんも勝手に入ってきて、ベッドカバーを外し始める。
このおばさんにもチップを渡さなければいけないのか。しかしまだコインに両替していないしな。と悩んでいると、
「Good night」
と言って出て行ってくれたので、ホッとした。
関係者10名程で軽く乾杯したのだが、疲れているので、22時頃部屋にもどる。
10月17日(水)
4時 目が覚めてしまう。その後、なかなか寝付けなかった。もっとも日本の12時だから仕方がないか。
9時 堀口五段を誘って朝食に。
実は、一人では食事に行けない、という情けなさである。羽生竜王は、最後の方は一人で行っていたようだが。
朝食はバイキング方式。御飯、味噌汁、卵、という日本食も用意されているのだが、1週間、そちらの方には全く手が伸びなかった。
(中略)
13時 領事館主催の昼食会の後、ハイデルベルグへ出発。
14時 アウトバーンを時速100kmで飛ばして、ちょうど1時間で到着。
廃墟と化したハイデルベルグ城だが、この雰囲気が決戦のムードを醸し出してピッタリ、とカメラマンの人達。
初の海外旅行なので、私も持参のカメラで撮ったが、普段撮られている立場なので、何となく照れくさい。
子供達と戯れている写真がある。私達が指差している足跡。狩猟に出掛けてばかりの夫に愛想をつかした妻が、間男を城に呼ぶ。ところが、運悪く夫が帰ってきて、男が飛び降りた時のものだとか。
私は日本を発つ前に教えて頂いた先生ならともかく、私達二人には縁のない話のようである。
22万リットル入るワインの樽を見た後、同市街へ。ここハイデルベルグには、ドイツ最古、約600年の歴史を持つ大学がある。学生牢の落書きが面白かった。
将棋好きの日本人の方が経営する店でおみやげなどを買って、20時頃ホテルへ。
それにしても、日本人観光客の多いことよ。
10月18日(木)
9時 ホテルを出発して、ツアーの方約20名と共に市内観光。
フランクフルトの街はそんなに広くない。バスで同じ場所を何回も通るので、位置関係もかなり把握できるようになって、余裕も出てきた。
15時 オランダから兄夫婦が到着。1時間程話をする。
5月に日本を発ったので、兄とは5ヵ月ぶりである。当時は、海外で生活とは大変だな、と同情したものだが、結構楽しんでいるようで、この日会って羨ましくさえ思った。
何と言っても、列車で気軽に外国へ行けるのが良い。
18時半 ホテルにて、100名程で盛大に前夜祭。
市の代表の方のあいさつ。地元紙の取材もあったようで、注目度が判る。
青い目の美女二人と記念写真に収まる。
黙っているのも妙なので、一人の女声に、
「How do you do?」
と言ったら、
「I’m fine thank you」
と妙な答え方をされ、その後、猛烈な勢いでまくしたてられ、話しかけたことを後悔した。
後で聞けば、彼女は日本語を専攻している学生だそうで、多分その事を言おうとしたのだろう。やはり、英会話をもっと勉強しておくべきだった。
10月19日(金)
6時 目が覚める。1時間ずつ、目が覚めるのが遅くなっているようで、良い状態で対局に臨めそうだ。
それにしても、これから竜王戦第1局を戦う、という気がどうもしない。
9時 対局開始。ヨーロッパでの歴史的な第一着は▲7六歩。
対局室の世話をしてくれた新沼麻衣子さんは、旅館「陣屋」のお嬢さん。
前夜祭の時と違う着物での登場は嬉しかった。
18時 羽生竜王が封じ手。
海外での対局はこれが3度目だが、過去2回は棋王戦と棋聖戦だったので、海外での初めての封じ手となる。
10月20日(土)
9時 再開。ヨーロッパ選手権に参加の外国人の方も、観戦に来られた。
12時半 昼食休憩。
バイキング形式のはずが、連絡不徹底で、土曜日はメニュー形式しかないとのこと。
そのため、昼休を10分延長したのだが、羽生竜王は短い時間で普段着から和服に着替えていた。長足の進歩である。
18時45分 終局。
負け将棋だったが、時差ボケか、珍しく羽生竜王に終盤でミスが出て、逆転勝ち。
23時 感想戦、打ち上げの後、兄夫婦、林葉さん、彼女の友人らで乾杯。
0時 ヨーロッパ選手権の会場をのぞいてみる。
驚いたことに、この時間でもまだ30名程の方が残っておられた。
そして、原田九段と中井女流王位が三面指しで、外国人の方の相手をしておられたのである。
原田先生も連日でお疲れのはずなのに、そして中井さんは旦那を放ったらかしにして―。いい光景だった。
お二人が頑張っておられるのに、私が引き揚げるわけにはいかない。求めに応じて、サインをする。
飛翔、などと書いても理解してもらえないので、詰将棋。
兄から教わった英語で、手数等を説明する。解いて頂けただろうか。
「Check mate by nine mone!」
10月21日(日)
9時 ツアーの方々に見送って頂いて、ホテルを出発。今回の観光のメインであるライン河下りへ。
バスで1時間のリューデスハイムから乗船。2時間程、景色を楽しむ。
添乗の保美さんが、「降りるところを間違えないで下さい」と何度も言う。
確かに、下船するまでの約50km、両岸を渡す橋が全くないのである。渡し船はあるのだろうが、反対側の岸で降りでもしたら大変だ。山の中腹にそびえ立つ古城。有名なローレライの岩。だが、近付くとローレライの歌が流れてくる野暮ったさには、笑ってしまった。
14時 昼食後、リューデスハイムにもどる。リフトに乗り、戦勝記念碑などを見た。
18時 フランクフルトでの最後の夜は、皆で寿司をつまむ。
10月22日(月)
14時 フランクフルト空港を出発。行く前は少々不安もあったが、昨日、今日などは「日本に帰りたくない」の一言だった。
帰れば、二日おいてまた対局地獄の始まりである。
17時 モスクワ空港に着陸。
行きは直行便だったが、帰りはモスクワ経由。トランジットで、一旦飛行機を降りる。
こちらの時間でまだ18時なのに、外は真っ暗。そして、我々の搭乗するゲート以外は全て電気が消えていて、とにかく暗い。
「写真撮影は禁じられております」のアナウンスもあって、とんでもない所へ降りてしまった感じだが、楽しかったドイツから、一旦この侘しさを体験することで、また日本が良く見えるかもしれない、と思った。
せっかく降りたのだから、ということで記念にキャビア等を買う。
それにしても、400人の客が居るのに手荷物検査の入り口が1箇所しかない。何という所だ。
10月23日(火)
12時(日本時間)成田空港到着。
帰りの飛行機も長かった。
外を何回眺めても、見渡す限りのシベリア大陸。ようやく海が見えた時の嬉しさと言ったらなかった。
14時40分 羽田空港へ。
大阪への直行便がないので、リムジンバスで羽田へ。
居眠りをしていたら、起きた時に頭が上がらない。これが時差ボケなのか。
モスクワ空港の手際の悪さと、首都高速の渋滞のおかげで、羽田に着いたのはわずか10分前。
とりあえずカウンターへ行くと、同じようにルフトハンザの旅券を持った若い女性が、係員と話をしている。
頼み込んでいるが、さすがに10分前では無理。次の飛行機ということになった。
初代竜王なら、すかさず彼女に声をかけてお茶に誘うのだろうが、もうそんな元気は、私にはなかった。
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谷川浩司王位(当時)の「こんなことなら、林葉直子に色々とネタを教えるんじゃなかった」というのは、将棋世界の1ヵ月前の号で林葉直子女流王将(当時)が竜王戦第1局現地取材レポートを書いていることによるもの。
そこからもいくつか抜粋してみたい。
林葉女流王将は、植山悦行・中井広恵夫妻、友人2名とともに2日遅れて現地入りしていた。
谷川王位にインタビュー
Q.羽生竜王と観光もずっとご一緒で?
「ええ、関係者全員バスで行きますから」
Q.観光でよかったとろころは?
「ハイデルベルグはよかったですね。あと学生牢なんかも面白かった。皆で話したんですが、将棋牢というのがあれば先崎五段なんかを一日閉じ込めるっていうのもいいんじゃないかと・・・」
(もしも、将棋牢なんてあったら、私は何年もほうり込まれそうな気がする・・・)
(中略)
Q。羽織袴を羽生竜王はご自分で着られるのでしょうか(谷川王位に質問するげきものではないが・・・)
「ええ、そのようですよ。わりと早く着られるようですね。昼食休憩のとき、いったん洋服に着替えてから、食事をしていたようですが、それから対局再開の時間まで15分足らずの間に和服を着ていましたので・・・」
Q.ちなみに谷川王位はどの位?
「私も同じぐらいで、10分ぐらいです」
(中略)
衛星放送をご覧になっていた方はご存知かもしれないが、二日目の対局中、羽生竜王が、お茶をポットから注ごうとしたのだが、うまくできず、首を傾げていた。それをジッと見つめていた谷川王位・・・。
Q.衛星放送でその状況が映りましたが。
「アハハ、私も教えてあげればよかったのですが、意地悪でしたか?いや、教えようと思ったら、堀口先生が先に・・・」
(意地悪とは、まったく思わなかったがすごく面白かった。私もきっと教えない・・・??)
Q.対局中ウーロン茶とか飲みたくなりませんでしたか?
「いえ、私は緑茶で、羽生竜王は、ずっとほうじ茶を飲んでましたけどね」
(以下略)
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学生牢は、ハイデルベルク大学の裏にあり、1712年から1914年まで使われていた。
ハイデルベルク大学は創立当初から裁判権を持っていたので、秩序違反をした学生の処罰は市の司法当局ではなく大学に任されていた。
警官に悪事を取り押さえられた学生は大学に通告され、大学が取り調べの上、処罰を決定される。
学生は、不法行為の重さにより、24時間から4週間、学生牢に閉じ込められた。
多くの悪事は「夜中に大声で歌い近所の人に迷惑をかける」「酔っ払って公衆の秩序を乱す」「学生同士で決闘する」というもの。(警官をからかって侮辱した場合で4週間入れられる)
拘留の最初の2日間はパンと水だけしか与えられないが、3日目からは差し入れもOKとなり、ビールも許されていた。
授業へも出ることができた。
また、拘留者同士、互いの部屋を自由に行き来することもできた。
このような所だったので、学生にとっては学生牢に入ることが自慢のタネとなり、在学中に一度も拘留されないのは不名誉だという風潮まであったという。
また、勾留中の時間を持て余した学生たちは、部屋にいろいろな落書きを描いた。
“投獄者”の落書きに対抗して大学は画家ゴットフリート・シュライバーに聖書や古代ギリシャ・ローマの絵や諺を描かせたとも伝えられている。
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谷川浩司九段にとっては初めての海外、羽生善治三冠にとっては2度目の海外(初海外はオーストラリア旅行)。
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私にとっての初めての海外は香港だった。まだ啓徳空港の時代でその隣には悪名高かった九龍城砦も健在な頃。
中国に併合される前の、香港が最も輝いていた時期だったのかもしれない。
そういう意味では、3年前にブログに書いた香港でのことが、私にとっての初海外紀行文になるのだろう。