将棋世界1991年5月号、佐藤康光五段(当時)の「待ったが許されるならば・・・・・・」より。
私は文章を書くことがはっきり言って好きではないし、書くと「文章がカタいね」とよく言われる。
理由ははっきりしている。読書量の欠如からくる感性のなさと言葉の狭さで、生まれてこのかた本を読み漁ったという経験が記憶にない。
小学生の頃から作文と読書感想文といえばイヤでしょうがなかった思い出がある。
河口先生(俊彦六段)は「生涯一万冊本を読むことが目標」と書いておられたが私には夢また夢のような話である。
そのような私であるが滝先生(誠一郎六段)には奨励会のときから随分とお世話になっている。
快く引き受けさせて頂くことにした。
(中略)
昔、といっても2、30年前だが将棋の世界には内弟子制度というのがあって師匠の家に住み込んで買い出しや掃除、洗たく等家事を手伝いながら将棋の勉強をしていたそうだ。
今は時代が移り変わってそういうことはなくなり、もっぱら通い弟子と言われる自宅から通う人が殆どである。
私も通い弟子だが、私が奨励会を受験する半年ほど前から半年ぐらい内弟子らしきことを経験した。
当時、毎週土、日曜に師匠の田中先生(魁秀八段)が大阪の枚方に将棋教室を開いており、その手伝いを兼ねて泊まり込みで行っていた。
土曜日、昼過ぎに学校が終わるとすぐさま教室に行って将棋を指す。そして終わるのが夜の9時頃、それから後かたづけなど。
夕飯を頂き、お風呂に入って夜の12時頃から2時間位師匠に将棋を教わる。
将棋界では弟子が師匠と将棋を指すのは珍しいが私の場合は100局以上は指して貰っている。
そして次の日、掃除、教室の用意等して再び教室が始まる。
私と同年代の中で数少ない内弟子経験のある先崎五段に言わせると一番大変なのは風呂掃除らしい。
そういえば私の心にひっかかっていることがある。私が初めて奨励会で大阪の将棋会館に行った。
皆始まる30分前には集まっている。
そして黙々と駒を磨いている。そこには何とも厳かな雰囲気があった。
対局の記録係をつとめるときもそうだ。1時間半前に着いて盤、駒、灰皿など確認してやはい最後に駒を磨く。皆これは先輩を見習っているのである。
しかし私は父の転勤で1年たらずで東京に移った。
東京の奨励会に来て驚いた。雰囲気が全く違っている。何となく自由な感じがあった。当たり前だと思っていた駒を磨くことをやっているのはごくわずかである。
そこで私はどうしたかというと皆やっていないからいいやと思ってやらなかった。今考えると恥ずかしい事である。
悪い見本になってはいけない。
関西の良い伝統は守って欲しいと思う。
私が初めて記録係をつとめた時、苦い思い出がある。
私は順位戦の記録をとっていた。初めは緊張していた私であるがじきに慣れ、夕方頃になると隣でやっていた将棋が面白い終盤戦になっていた。私はそちらに夢中になって肝心の記録の方に目がいかなくなっていた。
初めは「指したで」と親切に教えてくれた対局者の先生も2回、3回と私が気が付かないうちに隣で戦っていた某先生がたまりかねて「こらっ!!何しとんねん」と大声が対局室に響く。
全く怒られるまで気がつかないのであるからどうしようもない。
ただ将棋が指せるからという理由だけで入ったこの世界だがこの頃から少しずつプロとしての自覚がでてきたと思う。
以後、私も記録は結構とったがさすがに同じ過ちはしなかった。
某先生とは当時関西奨励会の幹事をされていた東先生(和男六段)である。
次回はその東先生にリレーエッセイをお願いすることにします。
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自分が記録係であるということも意識の中から蒸発してしまうほど将棋の盤面に夢中になる奨励会員。
怒られはしたものの、非常に有望な奨励会員が入ってきたとも思われたに違いない。
「ガラスの仮面」風に言えば、「佐藤康光・・・恐ろしい子!」ということだろう。
佐藤康光少年が関西奨励会から関東奨励会に移るとき、当時の関西奨励会幹事だった東和男六段(当時)と森信雄五段(当時)が、「将来の名人候補が東京に行ってしまう」と嘆いた話は有名だ。
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仙台の「杜の都加部道場」の加部康晴さんに聞いたことがあるが、道場に忘れ物をしていく子ほど将棋の力が伸びるという。
将棋が終わった後も頭の中で将棋に集中している(将棋のことを考えてる)から忘れ物をしてしまうわけで、その将棋に対する集中力が大事ということだ。
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副鼻腔炎は集中力が落ちる病気とも言われているが、私はこの夏、副鼻腔炎の手術をして、現在では鼻が非常に爽快になっている。
今週の日曜日に行われた社会人団体リーグ戦では、珍しく4勝0敗の個人戦績だった。
手術のおかげで、私に集中力が上がってきていると信じたいところだ。