振り飛車党受難(2)

将棋世界1992年10月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『少数派』」より。

 将棋戦法の隆盛と衰退は、時の棋界第一人者の動向とぴったり一致している。

 かつて大山康晴・升田幸三の両巨人が健在だった1960年代後半から70年代前半にかけて、両者の振り飛車を打ち破り、あるいは模倣することを軸に、プロ棋界が展開した。

 しかし、棋界第一人者の交代とともに振り飛車はしだいにシンパ(同調者)を失い、居飛車(相矢倉・相掛かり・角換わりなど)が棋界の主流となった。

 棋士はそれぞれ個性強烈に見えて、意外に付和雷同、多数に身を置きたがるのである。

 では、振り飛車は戦法として劣っているのか?それはない。もし中原・谷川らが飛車を振り、イビアナに連戦連勝すればふたたび「振り飛車王国」が来よう。

 故・大山康晴十五世名人は筆者に

 「奥山さん・・・本当の名人上手と言われる人は、戦法によって将棋の勝ち負けが左右されるなど思っちゃいないですよ・・・弱い者が居飛車穴熊指せば負けようし、強い者が飛車を振れば勝つ・・・ただそれだけのことです。

 と語ったことがある。

 「だから、時の名人は『この戦法はダメだ』など、言わんでしょう。戦法いうのは、衣装みたいなもんです。和服やから勝つ、洋服やから負ける言うのはおかしいんで、本当の第一人者は『将棋の勝敗は(戦法とは)別のところでつく』と思っとるですよ」

が、大山語録の結びだった。

 ―将棋の勝敗は戦法ではない。勝敗は別のところでつく・・・。

 これを聞いた時、観戦記者は何かあっけらかんとした気分になったものだ。

 じゃあ、どうして大山名人は飛車を振るのですか?食い下がった筆者に、

 「それは・・・大山に飛車を振らせたらうるさい、皆がそう思ってるから振るんです。それが本音の半分、いうところじゃないですか」

 にこにこと笑って、話は終わった。笑顔の裏にしたたかな人間性、言葉を変えれば悪魔性がのぞいた。

 大山語録には、人間の存在のありようをめぐる「本当のこと」がある。

 将棋は戦法だの、システムだのの優劣ではない。あくまで人と人のたたかいである。

 この世に健康・人格・識見・才能・技術五拍子そろった完全な人間はいない。ゼロだ。

 われも不完全、彼も未熟である。ミジュクモノどうしが、精一杯の技術を駆使して、どろどろ・パチパチ・すったもんだ・組んずほぐれつをやるから将棋は面白いのである。

 ダサくてもぶかっこうでも、「これがおれの将棋だ!」と、とことん意地をつらぬかなければ、カリスマ性を持った流派・教祖は興らない。勝負の美学も出てこない。盤上に”華”も咲かない。

 形だけ美しく内容空虚な美学はいただけないが、徹底して意地をつらぬく余りの美学はあって良い。カリスマ性や”華”のない、ただ高水準で均質のプロの世界というものに、ファンは魅力を感じるだろうか?共感を覚えるだろうか?

 誰も彼もが森下システムを採用し「負けまい」「負けまい」と連呼する。完成した部品を採用するような、同一局面症候群が、プロ棋界に広がっている。

 そのかげで意地っ張りの精神、創造とヤセガマンの心、美学と”華”が死ぬ。プロの根本を支える大切なものが死ぬ―のではないか。「なぬ?森下が開発したシステムなど、おれは使う気はない。理由?おれの方が志が高いからだ」と言ってのけるプロはいないものか・・・。

 ここ10年来の振り飛車衰退の裏に、観戦記者は何かうさん臭いものを感じる。「児玉流カニカニ銀」に新鮮な驚きを覚えるのは筆者一人ではないだろう―。

(以下略)

—–

奥山紅樹さん(下里正樹さん)の思いが込められた文。

奥山さんは、松本清張や森村誠一の秘書役をつとめたことがあり、森村誠一とは『悪魔の飽食』シリーズを共同執筆している。

また、地下鉄サリン事件の頃は、ワイドショーにコメンテーターとしても登場していた。

—–

同一局面が多く出てくることには、私はあまり抵抗がない。

どのような新手が出てくるかが興味の的だし、名勝負になることも多い。

—–

明日は、このような時代に振り飛車で活躍していた棋士たちの話。

(つづく)