昨日の王位戦第3局は、王位戦では初めての持将棋となった。
タイトル戦での直近の持将棋は1992年12月21日に行われた第61期棋聖戦第2局、郷田真隆王位-谷川浩司棋聖戦。
その前が、1991年10月24日~25日の第3期竜王戦第1局、谷川浩司竜王-森下卓六段戦。
更にその前が、1989年10月26日~27日の第2期竜王戦第2局、羽生善治六段-島朗竜王戦。
羽生善治名人にとっては25年ぶり2度目のタイトル戦持将棋ということになる。
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第2期竜王戦第2局(羽生善治六段-島朗竜王戦)は、雑誌系の将棋世界や近代将棋では棋譜の掲載のみで観戦記は書かれていない。
雑誌系で唯一書かれているのが、将棋マガジン1990年1月号での、谷川浩司名人(当時)による第2期竜王戦第2局〔羽生善治六段-島朗竜王〕の観戦記「幸福の基準」。
→谷川浩司名人(当時)「彼とは何れタイトル戦で戦うことになる」
谷川浩司名人は入玉が大嫌い、また相手に入玉を目指されることも苦手なことで有名だったが、その谷川名人が観戦する対局が持将棋となった。
島朗竜王(当時)が入玉が得意。この一局は島朗竜王が先に入玉をして、後から羽生六段が入玉。193手にて持将棋。
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しかし、その谷川浩司九段がその2年後と3年後に持将棋を直面することになる。
第61期棋聖戦第2局〔郷田真隆王位-谷川浩司棋聖〕は、優勢に運んでいた谷川棋聖の攻めが決まらず、その後も攻め続けたが郷田王位が入玉。そのあと、谷川棋聖が入玉をして170手で持将棋。
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タイトル戦で持将棋になると、棋戦主催社担当者はどう感じるのだろうか。
第2期竜王戦で、当時、読売新聞の担当者だった故・山田史生さんが将棋マガジン1990年3月号に書かれた貴重な記事がある。
それにこれは担当者の立場からいうことだが、第二局引き分けで第五局まで行くことが確定したのはありがたかった。七番勝負開始前、対局場を決めるのだが、第五、六、七局にあてられた対局場や関係者は、果たして対局があるのかどうか、とても心配なのである。現実に第一期竜王戦は4-0、その前の最後の十段戦も4-0で、第五局以降は準備しただけで実現しなかった。
地方の読売本社(または支社)の事業部がかなり前から準備に入り、ホテル等の対局場も前後三日間あさえてある。それがパーになるのはつらいことなのだ。こちらとしても4-0で終わると何か責任を感じてしまう。
その意味で引き分けが一局挟まったので今後の見通しが明るく?なりホッとした気持ちになったものだった。さらに終局後も、勝者敗者がいないということは何となく心穏やかな心境で、七番勝負のうちに一局ぐらい持将棋があるのはいいものだとさえ感じられた。
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王位戦でのケースだと、この2年間4-1が続いているので、2年とも第6局・第7局の対局場に予定されていた「陣屋」で対局が行われていないことになる。
そういった意味でも、王位戦担当の方々は、山田史生さんと同じような気持ちになっているかもしれない。
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ちなみに、1989年の竜王戦第2局は山形県天童市の「滝の湯ホテル」、1991年竜王戦第1局は「ヒルトンインターナショナル・バンコク」、1992年の棋聖戦第2局は「天童ホテル」が対局場で行われている。