将棋世界1986年2月号、森雞二九段の〔王将戦リーグ 対谷川浩司前名人〕自戦記「九段昇段の譜 ホッとした昇段」より。
今年の春、九段昇段へ勝浦八段がマジック18、私が16となった時があった。
その頃は当然自分が先に上がれるもの、と思い込んでいた。少しも疑わなかった。
ところがどうだ、いざふたを開けてみると勝浦さんは不調にあえぐ私を横目にスイスイとゴール・イン。「自分が先」と信じていた極楽トンボは、先にテープを切られ、あとは焦りがつのるばかり。
それでも何とかかんとか、ゼイゼイと肩で息しながら15勝。昇段まであと一番までこぎつけた。
そんな私にまず立ちふさがったのが「相手にとって重要な一番は必ず勝つ」と有言実行する、米長十段。よりによってである。そんな不運?にもめげず、頑張りに頑張ったのだが、230手という大激戦の末、泥沼に沈められてしまった。
続いてが谷川前名人との順位戦。当然決める予定で、序盤作戦勝ちから局面は優勢に進んだのだが、あえなく逆転。あつかった。ひょっとしたら自分はもう、このまま永久に九段になれないのではないか。そう思えてきて仕方ない程真剣に落ち込んでしまった。
続いてが本局。これを逃したら、もう終わりだぞ、今年どころかもう何カ月も九段に上がれないぞ。何度も何度も自分に言い聞かせ、強迫しながら気合十分で臨んだ、八段最後の一番をご覧頂こう。
(中略)
谷川さんは1図で▲5八金右と上がった。実は三日前の順位戦では、全く同じ局面で谷川さんは平然と▲6八玉。振り飛車を決め打ち。つい私はカーッときて△8四歩と突いた。意地である。以下矢倉となり、私としてはめずらしく作戦勝ちの将棋となってしまった。しかし、作戦勝ちになったとたん手が見えなくなり、決め手をのがす悪いクセが出て逆転負け。結局、作戦勝ちが敗因となってしまった。
谷川さんとしては、もう一度▲6八玉と上がって△8四歩から作戦負けになるのではおもしろくない、そういう伏線があっての1図、▲5八金右。
ここで、谷川さんがもし再び▲6八玉と上がっていたら?私は果たして△8四歩と突いて再び作戦勝ちを目指しただろうか?それは秘中の秘である。
(中略)
谷川さんの▲5八金右を見て、私はスンナリと△5二飛。ちょっといい気分だった。
(中略)
〔3図以下の指し手〕
△4三金▲6七金△4五歩▲3七銀△3五歩▲同歩△同飛▲3六歩△3四飛▲6五歩(途中1図)△3三角▲同角成△同桂▲2二角(4図)
△4三金は手の流れ。作戦勝ちですよという気持ちのいい一手。
△4五歩に▲同銀なら△3三桂ではなく△3五歩がすこぶる味の良い手となる。△3五歩と突いておいて、相手が何かやってきた瞬間、△3三桂といくのだ。
谷川さんの▲6五歩には△3三桂が形だろうが、この大事な将棋にわずか2分で△3三角は我ながら必殺の気合い。
作戦勝ちでじっとしていれば自然に良くなるところを、自らケンカを売ってでるのだから、私らしいではないか。
〔4図以下の指し手〕
△6五歩▲1一角成△6四銀▲3五香(途中2図)
▲1一角成と香を取り、谷川さんは「アマチュアみたいな手ですね」と照れ笑いを浮かべ▲3五香。私も一応「うん、アマチュアみたいだね」と答えておいた。
この辺私は実のところ楽しくて仕方がなかった。馬を作られ田楽刺しを食って楽しいのだから変な男と思われるかも知れない。が、この将棋は右辺で私が駒損をしても少しもこたえないのである。
〔途中2図以下の指し手〕
△1四飛▲1六歩△2五桂▲2六銀△4四角▲同馬△同飛▲2五銀△4六歩▲同歩△5三金▲6二歩(5図)
△1四飛に▲3三香成と桂を取れば、△4四角▲7七金△3三金にて”蛍の光”。香を手放して桂を取れないのでは谷川さんもつらい限り。
△2五桂は自慢の一手。▲同飛は△2四飛とぶつけてどんどん行く。ここまでは良かったのだが、とうとう私の悪い病気が出てしまう。
△5三金が緩手。優勢から来る楽観の病。ここは△5五歩で良かったのだが。対する谷川さんの▲6二歩は強烈な効かし。一遍に難しくなってきた。
〔5図以下の指し手〕
△7一金▲4五桂△6六歩▲同金△5七角(6図)
△7一金と逃げて▲4五桂。これがあるから先程の△5三金が悪手なのだ。金取りで飛車先を止められている。
しかし△6三金と逃げずに△6六歩としたのが絶妙のタイミング。もし、ここで△6三金▲3四銀の二手が入っていたら、先手の飛車が素通しで成れるだけに、私は当分八段で悶々としていたかも知れない。△5三金の緩手も、優劣を逆転するには至っていなかったようだ。
ともあれ△5七角と打ったところでは、そろそろ九段になったかなあ、まだ八段半ぐらいかなあ、などと考えていた。
(中略)
いずれにしても、決めに行く予定だった。ところが、ところが、である。△8四桂に対する谷川さんの応手は▲8六角。その手を見た瞬間、目の前が真っ暗になった。また上がり損ねたか!!単純な▲6四角の狙いがなかなか受からないのだ。
(中略)
▲8六角に△4八竜は半分開き直り。谷川さんの気持ち良さそうな▲6四角に△7三銀。ここも△7三桂が正着だ。
▲8六角の一発で頭には血が昇り、心はブルブル震えているのだ。今、正常な精神状態で盤面を見つめれば、まだ一手余しているようだが、あの時はそれどころではなかった。ほんとうに。
(中略)
この手は△4七角の受けなしを狙ったのだが、対する谷川さんの▲6五銀が敗着。▲6七銀と引かれれば、まだまだどうなっていたかわからない。
投了図以下は即詰みである。
谷川さんが頭を下げ、ようやく念願がかなった。嬉しいよりもホッとした昇段。それは、舞い上がったり暗くなったりと、私らしい実ににぎやかな昇段の譜となった。
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将棋の内容も文章も、森雞二九段らしさが全開。
100人中100人近くが△3三桂と指しそうな途中1図の局面で、好戦的で野性味溢れる△3三角!
「この辺私は実のところ楽しくて仕方がなかった。馬を作られ田楽刺しを食って楽しいのだから変な男と思われるかも知れない。が、この将棋は右辺で私が駒損をしても少しもこたえないのである」のような大局観が森流の真髄なのかもしれない。
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谷川浩司前名人(当時)との、
「アマチュアみたいな手ですね」
「うん、アマチュアみたいだね」
のやりとりも絶妙。
この頃は対局中の会話が珍しくない時代だったのだろう。
とにかく楽しい自戦記だ。