将棋世界1995年2月号、中野隆義さんの第7期竜王戦第5局〔佐藤康光竜王-羽生善治名人〕観戦記「羽生の結論」より。
羽生の振り飛車は全く予想の及ばぬところだった。大事な一戦だから佐藤が▲7六歩なら△8四歩とガッチリ矢倉で行くか、△3四歩はあっても、それなら経験豊富な横歩取らせだろう、と踏むのが良識あるところである。
この局を落とすと3-2とスコアの上ではまだリードしているものの、雰囲気的には非常によろしくなくなってくる。これは傍目から見てもそう思うのだから、当人としてはその何倍も気持ちが悪くなってしかるべきところである。
しかるに、ここにおよんで、あまり経験があるとは思えぬ向飛車をぶつけてくるとは、羽生の頭の中はいったいどうなっているのだろうか。
(中略)
〔1図以下の指し手〕
△5五歩▲同歩△同銀▲5六歩△4四銀▲3六歩△5二飛▲2四歩△同歩▲3七桂(2図)
佐藤の封じ手▲1六歩に羽生が長考の構えに入るや、盤側は、後手が△1四歩と端歩をあいさつするか△5五歩と戦いを起こすかで議論沸騰した。
居飛車穴熊の大家・田中寅彦九段曰く「ここは△5五歩と行く一手でしょ。ぼくは芹沢先生に『必要でない手は絶対に指すな。ぎりぎりのところで仕事をするのが将棋指しだ』って教わりました。だいたい△1四歩って次の狙いがあるんですか」
スーパー四間飛車の小林健二八段曰く「居飛車党の感覚ではそうかもしれませんけどね。ぼくは最近ようやく振り飛車の感覚が分かって来たんだ。大山十五世名人が座ってたら△1四歩と指すと思います。それが振り飛車の呼吸なんですよ」
「考えられない手だ」
「△5五歩じゃ振り飛車が負けるよ」
「よし、それじゃあ。受けてみて下さい」
「いいでしょう。さあこい」
居飛車穴熊の田中が振り飛車側を持ち、スーパー四間飛車の小林が居飛車穴熊側に立って、時ならぬ決戦が始まった。
その様子を、副立会いの島朗八段が黙って見ているのがおかしかった。島も居飛車穴熊のスペシャリストである。言いたいことはあろうに、先輩に敬意を表して余計な口出しを控えているのだ。
それを鋭く察知した田中が、「言いたいことありそうだね。遠慮しないでどんどん言ってよ」と水を向ける。兄弟子の挑発に乗るやと見えたが、島はあくまで冷静を貫いていた。
62分の長考をはらって羽生は△5五歩と突っ掛けた。
盤上のみならず盤外においてもぎりぎりを貫かんとして涅槃に旅立った芹沢は、羽生の選択をどう見ていたであろうか。
すんなり5筋の歩を手持ちにして△5二飛と味良く転回した局面は、居飛車側の指したい▲6六銀を牽制して(銀が動くと△5六飛がある)振り飛車側がうまく立ち回っているのではないか、というのが控え室の見解であった。
しかし、佐藤の▲2四歩の突き捨てから▲3七桂が指されるや、盤側では居飛車側も十分指せるのではないかという意見が出始めた。先の△5五歩に対して▲同歩から▲5六歩と収めるのは、プロの感覚としては部分的に見て先手が面白くない。そういったマイナス材料があるから先手よしとは思いにくいが、右桂を戦闘配置につけたのが何といっても大きいのである。「さすがに佐藤ですね。右桂を使えればバランスを保てるという大局観です」と、島。
〔2図以下の指し手〕
△3五歩▲4六歩△3六歩▲4五桂△5一角▲7七角△4三歩▲2七飛△6五桂▲6六角△5八歩(3図)
△3五歩から盤上は決戦に突入した。
(中略)
▲4五桂と急所に跳ね出せたのは先手の大きなポイントだが、後手も△3六歩のベラデカの取り込みと6五に桂を跳躍して相当な姿である。
△5八歩と攻めを催促してきた一手に先手の指し方が難しい。次の△5九歩成から△5八とに匹敵する手段が見当たらないのである。
「もしかすると姿焼きか……」
居飛車穴熊は玉は無茶苦茶に固いが、その反面、どうしても攻撃力不足に陥りやすい。相手が慌てて攻めてきてくれれば、その戦闘で敵の駒を取ることによって兵力を増強することもできようが、と金攻めを見せつつ「お前から動け」と言われると困ってしまうことがままあるのだ。
「右桂は跳ねたけど、それだけじゃ攻めが薄いか」
と、結論を出しかけていた盤側は、モニターに映った佐藤の次の一手を見て飛び上がった。
〔3図以下の指し手〕
▲8五歩△同歩▲8四歩△同銀▲同角△同角▲2四飛△5七角成(4図)
「うへぇーっ!そ、その手はチラッと浮かんだけど、とても口に出せなかったんだぁ」
プロ棋士ならば、百人中百人がそう思うことだろう。
「さすがに無理でしょう。いくら穴熊でもねえ」と、居飛車穴熊の田中も唸った。
▲8五歩以下、4図の△5七角成までのやり取りは、先手の丸角損である。しかも、5七の要所に馬ができては後手の玉頭が手厚く、飛車を走ったくらいではとても割が合いそうにない。
ところが、検討を進めてみると、さらに驚いたことに先手がよい……というより、ほとんど勝ち筋に近いのである。
〔4図以下の指し手〕
▲2一飛成△5六飛▲6六歩△5五角▲6七銀△4六飛▲8四桂△7三金直▲5六歩△6六角▲同銀△同馬▲7一角△8三玉▲4四角成△同歩▲8一竜(投了図)
終局直後、羽生は「この形は、こちらが少し足りないのかもしれません」と、小さな声ではあるがはっきりと言った。
投了図以下は、△8二銀と合いをしても▲7二銀△8四玉▲8二竜△8三桂▲6三銀成△同金▲7二銀△7三金▲6三金と攻められて一手一手の寄り筋である。
91手という手数を意外な短手数と見る向きもあろうかと思われるが、それは、羽生がゆがんだ指し方をしなかったからである。互いに妥協せずに戦えば決着は早くつくものである。
手数を長くするならば、△5八歩(3図)のところで△7三金左と寄って待つ手や△3二飛として▲3三歩に△2二飛と回っている順。また、▲8四歩(3図以下3手目)に対して△9二銀と引く手などなど、いずれも勝負として見れば有力に映る指し手ではあるが、羽生はそれらの手に対して検討の手は動かしてはいたものの指先に羽生マジックを生じさせるような凄みは感じられなかった。
「ありそうですけど、それではこちらの駒の調子が変ですね」と言う羽生に合わせるように、佐藤の態度にもいつもの張りが見えない。なんだか、ケーキの一番おいしいところを食べ尽くしてしまった子供のようだった。
感想戦を聞きながら思う。もし、3図で佐藤が▲8五歩を発見し着手し得ていなかったら、穴熊の姿焼きができ上がり、羽生が言ったこととは全く逆の結論が導き出されてしまっていたかもしれないと。その意味で、羽生が自ら振り飛車側を持って対居飛車穴熊の将棋を指すに当たり、竜王戦第5局を選んだのは多分に意識的なものであったのではなかろうか。居飛車穴熊の手応えを感じるに、舞台の大きさも相手も共に申し分ないからである。
羽生は力の限り居飛車穴熊と向かい合い、佐藤もまた決死の読みで居飛車穴熊の優秀さを示した。そこに本局の意義があると思う。
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3図では振り飛車が明らかに成功しているように見えるが、佐藤康光竜王(当時)の▲8五歩からの攻め筋によって、後手陣は崩壊してしまう。
角損をして馬を要所に作られて、その代償に桂を取りながら竜を作り、桂を打てるような8四の空間を作ったという流れ。
居飛車穴熊の特性を十二分に活かしたものすごい構想だ。
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だったら▲8四歩(3図以下3手目)に対して△9二銀と引けばどうなるのだろう、と思うのは人情として当然出てくるところだが、
「ありそうですけど、それではこちらの駒の調子が変ですね」と言う羽生に合わせるように、佐藤の態度にもいつもの張りが見えない。なんだか、ケーキの一番おいしいところを食べ尽くしてしまった子供のようだった。
という中野さんの表現が絶妙で、決して両対局者が本意・本筋と考える手ではないことが痛いほどわかってくる。
意中の女性がいるにもかかわらず、故郷の親から見合い写真を送ってこられ、その写真や身上書を見ているときの雰囲気、と言っても良いのだろう。