将棋世界1998年10月号、先崎学六段(当時)の村山聖九段追悼文より。
今、僕は東北の温泉に居る。静養のためである。行く前に、三つ、誓を立てた。一、酒を飲まない。二、嫌なことを思い出さない。三、嫌なことに触れない。
そこへ、村山聖が死んだとの知らせが入って来た。死というものは常に意外なものであるが、半ば予期していたことでもあった。
一年位前、彼が、今まで指した将棋の実戦集を出したいといい出し、ついてはどうしても僕に代筆を頼みたいといっているとの噂が入った。将棋指しが将棋指しの実戦集の代文をする。それを書かねば貧窮するわけでもないので断ろうと思ったが、手術の後の微妙な時期に実戦集を出したいということに、彼の迫力を感じ、迷いに迷った。迫力というのはややこしい言葉だが、ありていにいってしまえば、彼は、死期を悟っているなと思った。
深夜の居酒屋で、郷田、中田功と激論を交わしながら、気合で書くことに決めた。「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」酔った勢いで僕は叫んだ。横で中田功がボロボロ泣いていた。
村山が東京にアパートを借りていた頃たまに飲んだ。ワインが好きな男だった。(この、だった、という言葉にまだ非常なる違和感を感じる)二度ほど、急性アルコール中毒で病院に担ぎ込んだこともあった。二度とも、僕は点滴の横で彼の鞄の中にある推理小説を読んでいた。
一度目に倒れたとき、泥酔し、殆ど歩けないような村山が、勘定だけは割り勘にしようといい張った。理由を訊くと、ろれつの回らない声で、君には借りを作りたくないと呟いたり叫んだりした。
将棋指しがライバルに借りを作りたくない。この神経は分からなくもない。が、それにしても彼は酔っていた。ふらふらだった。それでも必死で財布からお金を出そうとする姿に、僕は一種の狂気と執念を感じた。
実際、村山はシビアな男だった。並みの将棋指し以上にあらゆる勝ち負けにこだわった。麻雀をやれば、彼が勝っているか負けているかは一目で分かった。子供の頃から死を見つめて来た男にしては達観するところがなく、お金の貸し借りには潔癖だった。そのくせ、本誌の大崎編集長と三人で飲んで世界普及のために若手棋士が金を出し合おうと冗談をいうと、次の日にいきなり百万円を用意してきて周りを慌てさせたこともあった。
村山聖は、普通の青年が当たり前のようにすることをしたいという願望が強かった。そのため麻雀を打ち、酒を飲み、人生を、将棋を、ときには恋を語り合った。
二人で飲んだとき、村山が、唐突に僕に向かって「先崎君はいいなあ」といい出したことがあった。健康の話ならば何をいまさらという気がしたが、どうもそうではないようだった。僕に、彼女がいるのを羨ましがっているようなのだ。
自分には夢が二つある、と彼はいった。一つは名人になって将棋をやめのんびり生活すること。もう一つは素敵な恋をして結婚することだといった。大丈夫だよ、君をいいという人が必ず見つかるさ。僕はいった。駄目だこんな体じゃ。彼は震えた。そして呟くようにいった。死ぬまでに、女を抱いてみたい……。それから彼は堰を切ったように家族の話をしはじめた。母に心配されるのが一番辛いといい、自分には兄貴がいて、これが、自分に似ず格好いいんだわ、と何度も何度も繰り返していった。そして東京に来て嬉しいことは、皆と麻雀したり、君とこうして酒が飲めることだといって、倒れた。二度目の点滴のときである。それが、最後の二人の席になった。
村山が膀胱癌になったと聞いたとき、様々に僕はショックを受けた。彼が小さい頃から患った腎臓以外の所が悪くなったのもショックだし、酒や麻雀などの不摂生で自分が片棒を担いでしまったのかとの思いもあった。それにもまして、彼の二つの夢が、どちらか一つでも死ぬまでに叶うのだろうかと思った。彼の体を心配してくれる女性は母親以外にいるのだろうか。彼は恋しているのだろうか。
村山聖には志があった。名人になりたいというでっかい志が。と同時に普通の青年として生きたいという俗人としての欲望もまた強かった。強く、せつなく、そして優しく悲しい男だった。
今、この文章を読んだ方は決して忘れないで頂きたい。そして語り継いで頂きたい。平成初期の将棋界を駆け抜け夭折した男は、将棋の天才だったと。と、同時に人間味溢れる青年だったと。
今、僕の誓いは二つ目と三つ目が脆くも崩れた。仕方がないので、僕は酒を飲んで君のことを思い出すことにする。
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先崎学六段(当時)が書いた追悼文にはタイトルが付けられていない。
訃報を聞いて、先崎六段が東北の温泉で一気に書き上げて編集部へFAXしたのだろう。
「横で中田功がボロボロ泣いていた」で涙が滝のように流れてくる。
本当に切ない。切なくてたまらない。