将棋世界1992年6月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『引退』」より。
3月31日―。
一人の棋士が静かに棋界を去った。吉田利勝七段。八段昇段まであと6勝、59歳の誕生日を数ヶ月後に控えての引退である。
棋士(四段)になったのは1957年。いらい35年間にたたかった公式棋戦902局、389勝513敗、勝率4割3分1厘。
盤上でのはなばなしい活躍はなかった。1974年度第5回新人王戦で青野照市四段と新人王戦三番勝負をたたかい、敗れた。その翌年、第27期棋聖戦で、二上達也プロと挑戦者決定戦を争い、無念の涙を呑んだ。1970年、B級2組に昇級し22年間その座を守った。それくらいである。地味を絵にかいたような棋士人生であった。
「引退は4年前から考えていた・・・あと何勝で八段昇段だからそれまで頑張れと、先輩棋士から励ましの手紙をもらったが、八段に昇ることへの執着はまったくなかった・・・以前とは引退金制度が改善されたこと、盤の前で頑張りが利かなくなってきたことが、今回引退の決意となった」
淡々とした吉田の述懐である。
アマ時代も含めて今までに指した対局数はざっと1万局。「棋士としては最少局数では・・・」と笑う。指導対局も少ない。各地将棋まつりにも殆ど出演しない。ヨシダ引退と聞いても、顔が思い浮かばない将棋ファンも多いのではないか。
「B級2組の座を維持し続ける・・・それが私の目標だった。ふつう『名人をめざす』『タイトルを取る』が、棋士の夢なのだろうが・・・私の場合はあてはまらない。そのような目標は若い時から一度も持ったことがない」
と、吉田は言う。
では、将棋はあなたの人生にとって何でしたか?
「職業として、たまたま棋士の道に入った・・・これが正直な答えですね。そういう意味ではふつうのサラリーマンとおなじ。サラリーマンに『あなたにとって会社とは何ですか?』と聞くようなものでねえ・・・私は盤上でたたかうのとは別の道を歩んだから。将棋連盟のサラリーマン生活が長かった」
吉田プロの回想から、一つの時代の棋士人生が浮かび上がる。
1950年代―。
奨励会員吉田利勝の日常は、まず生活との戦いであった。愛知県から上京し、食べるための職を探さねばならない。奨励会二段からの9年間、吉田は本誌「将棋世界」編集部員として働いた。棋士以前に、将棋連盟の職員―それが吉田のスタートだった。
吉田利勝だけではない。将棋界全体が貧しかった。吉田の師匠・花村元司プロ(故人)ですら、東京・深川の六畳一間に借間住まい。そういう時代であった。
四段に昇段したのは1957年。職員としての勤務と現役棋士の対局。その他にも仕事をかかえて多忙の生活が始まった。順位戦の成績7勝2敗の時、無理が生じて結核発病。あらゆる仕事を即座にやめて、順位戦だけを指し継いだ。11勝3敗で昇級昇段後ただちに1年間の療養生活に入った。
「昇段後の棋士手当、編集手当が同額で合わせて1万円。休職中も全額支給が決まっていた。ところが入院費用は月2万円。20人ほどの棋士仲間のカンパによって、私の闘病生活が支えられた」
1年余りの闘病中、吉田は「棋士であることの意味」を何度も考えた。そのころ、順位戦を基礎にした四段の”月給”が2,500円。A級棋士でも1万円がやっと(注 吉田が入院した1年前の値段)。ナミの背広一着の仕立て上がりが1万2千円、マッチ一箱が3円という物価であった。
「棋士仲間のうち、ある者は何かのセールスマンをしながら将棋を指している。ある者はまた別のアルバイトに精を出している・・・将棋指しが職業として成り立たない。これでは棋士をやっている意味がない。何とかしなくっちゃ、と思いました・・・自分の将棋が強くなることよりも、棋士全体の生活向上が第一じゃないか、そう考えましてねえ」
棋士仲間からの善意のカンパを受けた体験が、吉田利勝の生き方を変えた。
「将棋世界」編集部に戻った。太期喬也編集長の発案で1963年春、「初段コース」企画がはじまった。これが大ヒットした。月売2万部そこそこの本誌が一気に6万部近くまで伸びた。吉田は「初段コース」応募者へのハガキ返送、免状取得者の審査など実務に汗を流した。しかし、雑誌が7万部近くまで読者を増やしながら、棋士の暮らしはいっこうに良くならない。
―将棋連盟の経理はどうなっているのか・・・
ふと、疑問を持った。
吉田はみずから志願して将棋連盟の経理部スタッフになった。棋士の生活条件を改善するためには、連盟の財布(経理)の構造を知らなくてはならない。吉田利勝の決意はハンパではなかった。彼は1970年から5年間、経理部の椅子にすわった。
彼は驚いた。対局室で見るのとはまったく別の棋士群像が、吉田の前に現れたのである。
朝、9時半ごろ経理部に出勤し、その日の仕事の準備をする。と、吉田利勝の来るのを待ちかねていたように、棋士Aが入室する。
「吉田君、金を貸してほしい。いますぐに・・・」
「まだ時間前だから、金庫は開いてませんよ」
「そんなことは分かっている。君がここに居るから頼みに来たんだ」
「しかし、連盟の金は金庫に・・・」
「そこを何とかしてくれ。どうしてもいますぐ、金が欲しいんだ」
頭を下げて緊急の借金を申し込む棋士の姿があった。
「対局料を前借りしたい」と駆け込んで来る棋士。「給料3ヵ月分を前借り出来ないか」と相談に来る棋士。ちょっとまとまったカネが要る。この10日ほど融通してくれれば助かる。いろんな名目でカネを借りに来る棋士仲間の背後に、
―生活費が足らない、のっぴきならぬ現実・・・
があった。棋士仲間の窮状を知るにつけ、吉田は胸をつかれた。
「当時、こんな話を聞いたことがありましたよ。理事会が、ある新聞社に棋戦の契約金を受け取りに行った。新聞社は小切手を切ってくれたが、受領した理事の顔色が変わった・・・小切手では困る、どうしても全額を現金で欲しいと新聞社に求めた」
「小切手だと換金するまでに一両日かかる。が、その時間的余裕がない・・・こうしている今も、連盟でわれわれの帰りを待っている棋士がいる。今日中に現金が渡らなければ、たちまち棋士の生活に支障が出るから、と連盟の代表が新聞社にかけ合った。それくらい誰も彼も生活に困っていました」
「山田道美八段(当時)が急逝した1970年、規定により遺族に支払う山田プロの”引退金”が、他から借りて支払われた形跡がありました」
と吉田は回想する。
―何から手を着ければ「棋士が職業として成り立つ」ようになるのか?
経費の節約を図り、「将棋世界」などの販売益を、コツコツ連盟の資金として蓄積しながら、吉田はそのことを考え続けた。
―結局、棋士の生活苦の根本は「名人戦」の契約金=当時年間3,000万円余=が低すぎることにある。棋士の昇級昇段を決定する「順位戦」の上に名人位が成り立っている。その意味で「順位戦」は他棋戦にくらべて質が違う。
―であるのに、当の「名人戦」の年間契約金は、他のビッグ棋戦にくらべわずか10%ほどしか高くない。「名人戦」契約金の異常な安さと、名人位を支える「順位戦」の価値評価の低さ。ここに棋士の生活苦の根源がある・・・。
吉田利勝は、あれこれ考えたあげくこの結論に到達した。
もちろん、歴代連盟幹部は毎年のように主催「朝日」紙と契約料アップの交渉をくり返していた。
が、その交渉は主として「棋士の生活が苦しいので何とか値上げしてやってくれませんか・・・」式の人情論。新聞社も一企業なので、人情論だけでは契約金を上げるわけにはいかない。
経理部長としての吉田は、連盟内で顔を合わせる棋士ごとに「名人戦値上げ」を耳打ちした。
―いま、連盟の手元には1億円ほど手元金がある。いざという時はこの手元金で、2年分の人件費をしのぐことは出来る。契約を白紙に戻す最悪の事態を覚悟で、真正面から「順位戦」の価値の高さを訴えるのだ。名人戦の契約金額には、全棋士の命がかかっているのだ。自信をもち、客観的なデータをそえて、「朝日」紙と交渉しよう。全棋士が理事会を応援しよう。
経理部長の説得は、漢方薬のようにじわじわと効き、多くの棋士の心を動かしていった。年配棋士の中には、
「強腰の交渉では、現行3,000万円余の契約金がフイになる可能性だってある・・・元も子も失う結果とならないか」
の危惧の声も聞かれた。だが「いざという時は2年分の人件費をねん出する手元金がある」とする、吉田経理部長のクールな説明の方が説得力があった。
あっと目を見張るようなことが起こった。この年(1976年)にはじまった契約金更改交渉で、「朝日」紙は、名人戦契約金をすんなりと1億円の大台に乗せた。一気に3倍増が実現したのである。
ほぼ時をおなじくして、文化庁から全国小・中・高校生への将棋クラブ活動に対し助成金を出そうという話が来た。年間数百万円の国家助成である。その意味は大きかった。助成の結果に会計検査院の検査が入るというので、吉田はその対応に忙殺されていた。
この間に、名人戦契約をめぐる”雲行き”があやしくなった。棋士の間に、
―「朝日」は1億円の契約金を支払う余裕があったのに、これまで低く押さえて来た。許せない・・・
という空気が広がった。囲碁界の最高棋戦と将棋名人戦の契約金に格差が生じたことも、棋士の神経を刺激した。
1億円で落着した名人戦契約金を、さらに3倍化しようという動きが、次の年(1977年)になって表面化した。
このあたりが将棋連盟(というよりは棋士集団)の独特のところである。
―名人戦の契約を白紙に戻して、新聞社が困るか、将棋指しが困るか。とことん刺しちがえてみようじゃないか・・・。
連盟内の空気はエキサイトした。一企業と一団体の契約改定を、まるで盤上における勝負とおなじようにとらえる、棋士独特の論理と感情が、千駄ヶ谷をおおった。
吉田は棋士の意識の変わりように驚いた。引き留められるような状態ではなかった。名人戦契約金を、3,000万円から1億円にする過程で、抑圧されていた部分が爆発した。棋士が胸を張って、自分たちの芸の価値を社会に対しアピールするようになったのだ。アピールの仕方は独特であったが。
東西将棋会館も完成し、将棋界は遅まきながら高度経済成長の波に乗り、新しい高揚期に入っていった―。
「将棋世界」編集部員を9年。「将棋年鑑」編集責任者を6年。連盟経理部長を5年。吉田利勝の棋士人生は、連盟を縁の下で支える活動に費やされた。
20年前と今をくらべて棋士は豊かになった。江戸時代からこちら、棋士が職業として成り立つ初めての時代が来ている。しかし現状に安住していると再び『底』がくる・・・。
これからの将棋連盟に対して何か―。
「内部要因としては、順位戦制度の是非が問題になりますが、早急に改善しようとすれば無理が生じるでしょう。経営面では、欲を言えば新聞社だけに依存せず、野球や相撲のように興行化して、見せる将棋に脱皮出来れば最高でしょうね」
現実離れの理想論は努めて言わないようにしているという。吉田はこれが最後だからと、今まで抱いていた将棋界に対する未来の夢を語った。
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いろいろな歴史があって現在があるということを、あらためて感じさせてくれる。
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吉田利勝八段は、故・花村元司九段門下。
森内俊之四段(当時)は竜王戦で吉田利勝七段(当時)に悔やまれる負け方をして、森内四段は自分を痛めつけるかのように、横浜の自宅まで走って帰っている。
→森内俊之四段(当時)「ひどかったす。死にました。もう投げます」
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たしかに、「初段コース」はエキサイティングな企画だ。
私が初めて将棋世界を買ったのが中学2年の2学期のこと。「初段コース」には毎回応募していて、中学3年の3学期には初段コースの卒業点数に達するようなペースだった。(当時は毎回満点でも卒業まで12ヵ月かかった)
しかし、あと2回で卒業点数を超すかという時に、ぱったりと止めてしまった。
映画『ニューシネマパラダイス』で、「100日間の間、昼も夜も私のバルコニーの下で待っていてくれたらあなたのものになります」と言われた王女を深く愛する兵士が、バルコニーの下で何日も待ち続けるものの、99日目の夜に立ち上がってその場を去っていくという話(会話)が出てくる。
なぜ兵士が去っていったかは永遠の謎だが、私の場合は簡単で、思うように学校の成績が上がらず、第一志望の高校に合格してから再開しようと思っていたものが、第一志望の高校に落ちてしまったから。
その後、私が将棋会館の道場で行われていた初段免除獲得戦(昔あった)に参戦するのは、「初段コース」への応募を止めてから15年後のことになる。