研修会を作った棋士

将棋世界1993年1月号、炬口勝弘さんの「素顔を拝見 武者野勝巳五段」より。

 ところで、本人自身のプロ入りの動機、現在、プロとしてある存在意義について、詳しく語ってもらった。

「大体、高校卒業してからプロを目指すなんて遅すぎますよね。小さいときからオヤジからは、家業の八百屋を継いで欲しいと期待されてて、僕自身も、市場へ仕入れに行ったり、売れ残った野菜を漬け物にしたりと店の手伝いをしてて、親に応えるつもりだったんです。

 だから18でプロを目指したときから、かなり分別がありまして、加藤一二三先生はもう僕が奨励会に入ったと同じ年令で八段だったんですよね。それでなくとも、4級で奨励会入りしたときに、昭和29年生まれの飯野健ちゃん(健二六段)が、三段なんですよ。名人候補と言われてた。ええ、そりゃ僕がいくらウヌボレが強いったって、まあそういった人を、いくら努力しても全部押しのけて、自分が名人やタイトルホルダーになれるとは、そこまでウヌボレていなかったですけどね。うん。

 ただ、自分は自分なりに、将棋界に、こういう人間がいてもいいんじゃないか。いさせて貰ってもじゃなくて、いることで、将棋界も利益があるんじゃないですか、という自負は多少ありました。

(中略)

 自分はもう名人にはなれないだろうけれど、最低限四段になって、将棋連盟の構成員になれば、必ず連盟にいい影響があるんではないか。これからは、いろんなことが将棋界にとって必要になってくるだろう。たとえば海外普及になると、英語が喋れるのがいた方がいいんじゃないか。また一般の日本人に、語ることで自分たちの気持ちをうまく伝えられるような存在がいてもいいんじゃないか、またその中の一つ、物を書くことで表現したらどうかという気持ちも若干ありましたね。そういう点で棋界に貢献できる棋士になりたいと、今その気持はさらに強くなっていますが」

 故・大山十五世名人の会長時代、昭和58年から62年まで2期4年間、将棋連盟の理事を務めた。四段になって4年ぐらいしか経っていないときで、まさに史上初の最年少(20代)、最低段(四段)の若い理事の誕生であった。

「とにかく異例なわけですよね。今までは将棋連盟の理事というのは、八段になって、功成り名遂げた人が、最終的に、まあ名誉職的になる。

 それが突然大抜擢で、武者野にですね、白羽の矢が立って理事やってみろと。ま、有難いことでね。多少は、中学・高校時代に、団体のまとめ役みたいなことを、一応立派にこなしてきたんだろうと、そういうことが出来るんじゃないかということで・・・。

 だけども率直にいって、僕の理事時代の評価というのは、毀誉褒貶いろいろありまして、バカに評価してくれる人と、もうとんでもない理事だったと言ってる人と両極端でして。ですが、それは僕とすると、多少、仕方のない部分がありまして。

 なぜなら、さしたる仕事をしないとなると、ほらみろと、やっぱり若い者に理事なんかやらせたって駄目なんだという評価になってしまいますから。で、僕の場合は、たとえ批判されても、仕事を目一杯せざるを得ない状況に置かれていましたのでね。

 仕事をするというのは、物事を変えるわけですから、変えればプラスになる人が8割いても、マイナスになる残りの2割の人が大きな声で反対する。プラスになる人は黙ってます。ま、批判されるのは仕様がないんで、これは学生時代から当然分かってました。必要経費だということですね」

 次々と機構や制度の改革を断行していった。例えば細かいことだが、長年、1枚80手だった棋譜用紙を、レイアウトを変えて倍近くの150手も入るように変えた。

「棋譜用紙の使用量、コピー代だって大幅に違いますし、大体、1枚で収まるというのは大変便利なことでね。多少は文字が小さくなりましたが、それでも大半は歓迎してくれました。

 大体が、新聞の活字が1行16字から15字、14字、13字と段々大きくなってる時代に、将棋連盟が棋譜を小さくするなんてもってのほかだ、なんて批判も出ましたが、どうも敵は本能寺のようでしてねえ。で批判のための批判ですよ。それだったら1手1枚に書きゃいいじゃないかまあ、こんなのは些細なことですがね」

 理事時代の仕事では、研修会、育成会の新設が特筆すべきことだろう。

「奨励会予備軍や浪人生のために研修会を作りました。自分がプロに向いてるか向いてないか、同い年で化け物みたいに強いのがいれば、才能が違うんだと、かなり早い段階から分かってくれる。奨励会に入ってからですと、ちょっと本人にとっても負担ですからね。研修会は日曜日、月2回で月謝1万2千円。有料ですから、連盟もマイナスではない。部屋代も、指導棋士への日当、弁当代も払っている。独立採算事業としては結構じゃないか。

 育成会にしてもしかりです。早い段階から競争の原理で、お互いに切磋琢磨されていいことでしょう。第1期の清水、斎田、そして高群、横山、植村と、みんな立派に育って、今では第一線で活躍しています」

 大山・二上の会長、副会長にフォローして貰い、理事会も認めてくれた妙案のはずが、やはり棋士会では反対意見もあったという。

「連盟は俺たちの商売の邪魔をするのか!? ウチの教室の生徒が、辞めて研修会や育成会に入ってしまうとか。東京、大阪にしか作らないというのでは、より一層、地方からの棋士が生まれにくくなる!親の負担も大変だ!それから、女流育成会にしても、強い子ばっかりが出るわけで、例えば渡辺マリアさんみたいに、外国人の女性で将棋が強い人、今までの方法だとプロになれていたかもしれず、そうなれば普及面で有力な戦力になり得たのに、そういう人がプロになれなくなったとか・・・。確かに一理ありますが、難癖つけ始めればキリがないですよね」

”将棋の日”を大きなイベントに仕立て直したのにも、武者野理事は大きく貢献している。それまで、将棋会館でお茶を濁してきたものを、初めてビッグ・イベントとしてNHKテレビを巻き込み恒例化した。

 第10回のNHKホールでの開催を皮切りに、その後は堺、名古屋など地方でも盛大に開催され、11月23日の勤労感謝の日に、NHKテレビから堂々2時間半枠の番組として放映されている。今年は青森の百石で開かれた。

 理事時代最後の仕上げが、将棋の海外普及だった。

 第1期棋王戦決勝戦のハワイ対局以来、実に10年ぶりに棋聖戦で海外対局を復活させた。ロサンゼルスには、設営のため3度行き、日本人会、現地法人、総領事館などに足繁く通って協力を取りつけた。

「ただ海外に出て対局をやるだけでなく、それだけでも意義は大きいですが、現地の多くの人たちに、日本のプロの真摯な姿を見て貰って海外対局の本当の目的が完結する。ということで、僕のヘタな英語で、金くれ!人集めてくれ!って現地の法人に援助を元マテ飛び込むわけです。珍道中でしたね、今にして思えば。歓迎パーティーを総領事公邸でやってくれ、すごいイベントに仕上がって、我ながら感激しました」

(中略)

 最後に棋士武者野の自己採点―。

「西村八段にね、武者野君は知識もそこそこあって、なんでも器用にこなす、まあ将棋指しには珍しいタイプだと。会社に行きゃ行ったで出世しただろうし、商売やればやったで結構金持ちになっただろうし、武者野君は、この世の中で、一番苦手な商売についたんじゃないか!? 将棋指しというのは・・・なんて笑われちゃいますけどね。一番苦手ということはないでしょうけど、ま、成程な、商売でもやってれば、も少し小銭が貯まったかな、政治家にでもなっていたら、も少しきちっとしてるかなあとか、まあそれが幸せかどうか。

 僕自身は非常にシンプルでして、とにかく将棋指しになれてよかったと思ってますがね」

(以下略)

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研修会と女流育成会を理事時代に作った武者野勝巳七段。

丸山忠久九段、藤井猛九段、三浦弘行九段、鈴木大介八段など、研修会を経由して奨励会入りした棋士は多い。

研修会が誕生していなければ、将棋史は変わっていたかもしれない。

丸山忠久九段の研修会時代

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長手数の美学・不倒流の淡路仁茂九段は、1枚80手の棋譜用紙の時代に「3枚目の男」と呼ばれていた。しかし1枚150手の現在の棋譜用紙になってから「2枚目の男」と呼ばれたかというと、どうもそうでもなさそうだ。

一度ついた異名は、なかなか都合の良いようには変わらないようだ。

 

 

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