近代将棋1988年2月号、炬口勝弘さんのアマプロ勝ち抜き戦〔先崎学四段-金子義之アマ五段〕観戦記「三度目の決戦」より。
先崎君に初めて会ったのは、今からもう8年も前になる。昭和54年の秋、奨励会入会試験の受験生、たしか47人だったと思うが、その四十七士の中に先崎君の姿があった。まだ小学校の3年生、もちろん最年少の受験生だった。ちっちゃくてあどけない顔だったが、そのくせ態度はデカく、ペタンと胡座をかき、扇子を一丁前に使いながら、相手が考え始めると周囲を見わたしたりしていてひときわ目立ったものだ。早指し早見えで、ほとんどノータイムで指していたから、いつもあたりを見わたしているように見えた。しかし結果は不合格。もう一歩というところだった。
「先崎が負けて帰ると、お母さんがメソメソ泣くんでね、困るんですよ」
師匠の師匠にあたり佐瀬八段のボヤキを、いまでも鮮明に覚えている。ちなみにこの年は”福岡の天才少女”林葉直子女流アマ名人(小学5年生)も受験し、こちらはみごと合格した。先崎君が晴れて入会できたのは3度目、その翌々年、昭和56年の秋だった。
そんな少年も今では17歳。あどけなさはそのままながら、すっかり背も伸びて、9月には三段リーグを抜け、晴れて四段になった。
「お祝いにはソープランドへ連れて行ってあげるんだ」冗談ともつかずそんなことを言っていた先輩棋士がいたのを思い出し、今回、対局の後でだが、さりげなく訊ねたら、
(以下略)
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切れ目は悪いが、先崎学四段(当時)の回答は次の中のいずれか。
- 「あれは冗談だったんだと謝られて、かわりにフグを御馳走になりました」
- 「師匠にバレて、無しになっちゃいました」
- 「付き合っている彼女に悪いと思い、申し訳なかったんですが断りました」
- 「え、そんなことを◯◯さんが言ってくれていたんですか?」
- 「ええ、駄目でした。ワリカンにさせられました」
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