将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。
ところが「正直」、「親切」。その言葉が心のかたすみに在りながらも、私は奔放に暮らし、青春?を肩で生きるような観で過ごしていた。悪ガキの先導に、喧嘩はスポーツがわりで他にさまざま。当然、これらの風評が花村の耳に入らぬわけがなかったが、云っても無駄…。とうにサジを投げたか?たぶんそうであろう。なにも云わなかった。それをいいことに益々増長の途を。初段だった18のころ、塾生を退めたい…と。その日は、花村が対局で帰りそびれ麻雀か碁で夜明かしをした朝であったかに、きりだしていた。
話をきいて花村の顔が一瞬くもり、眼じわにしわの寄る渋い表情に変わっていた。「………」。むろん私も、きりだしたはいいが、次の言葉を見いだせず押し黙ったままであった。数秒の沈黙。だが、花村の口がひらくまでの時間が逃げだしたくなるほど長く感じられた。
「やって(暮らして)行けるのかい…」。
「ええ、なんとか?」
じっさいはなんのアテもなかったが内弟子、塾生と暮らしてきて、とにかく現在よりもさらに自由がほしかっただけであった。上京して3年。都会生活にも慣れかけた私は”男一匹”どうしたって行きて行ける気がしていた。
ああしろ、こうしろと教訓、忠告めいたことはいっさい云わぬが花村流で、このときも拍子抜けするほど無条件で煙草をくゆらせながら、「しょんない奴ちゃ…」のポーズもみせ容認していた。干渉しないかわり、干渉もさせない。”自由に行きてみろ”と突っ撥ねられたが、過去の人生をみるに花村こそ、斯く生きてきた張本人であった。ともあれ家から仕送りは論外の話として、アルバイトの稽古先とても一軒も…であったが、かぎりなく自由な観がして18歳の青年は、”さあ、やるぞ”と新天地に駈け出して行った。
そのころはよく升田幸三元名人の家に…。酒を呑めない花村に比べ、元名人は酒豪中の酒豪で話が明快なうえ、陰翳の豊かさがあり、もじゃもじゃ頭に髭と炯々たる眼光…。それは教祖か、仙人かのような風貌と風采で、いかにも”将棋の棋士”と云った観で奨励会の子にも解りやすかった。この家に行くとビールを呑め、幾ばくかの小遣いを貰えることもあったが、なによりも主の将棋に懸ける執念で張りつめたものがストレートに伝わってきて、つかの間、自分も強くなったか?のような錯覚を覚えるのが心地よかった。
元名人の家は、奥さんと2人の男の子がいて一家4人。その後、関口さんも塾生になったとはいえ、それでも花村の家は13人か、14人の大世帯で、そこには元”居候”が遊びに行ってもしょうがないし…の世界で、花村と顔を合わすのは、たまに対局の折でしかなく自然と足が遠のいて行った。かの分だけ元名人の家に足が多く向かうことになっていた。
”酒”と”バラ”の日々。まったく当時は、そんな気分で過ごしていた。が、若さと自由だけは人に倍してあったにしろ…金が無かった。友達のところを遊びとも居候ともつかず転々と。そして、アルバイトで詰将棋を作り、たまに金が入れば遊興に。否。金が無くとも誰かの懐をあてにして遊び暮らし、そのなかで将棋だけが強くなることを夢みて…。棋士のたまご、小説。画描き。漫画。写真。おまけに実業家、政治家を目指す者までいたが、どの顔も青臭い書生論だけで、”ハシ”にも”ボウ”にもかからない”チンピラ”と云ってよい若者達で、似たような境遇と臭いを持ち合わせていた。
そうしていると金が詰まってくる。金の工面が多少でも…と云えば、内弟子をやめていらい疎遠となっている花村に頼めた義理ではなく、むろんたいていは自分でつくるのだが、どうしてもとなれば悪童連中から詰将棋を買い集め、元名人の家へ走ったこともあった。他人がつくった詰将棋をろくに検討もせず横流し。と、ある日。元名人はその詰将棋を出題してしまっていた。当然、余詰め。はたまた、類似作などの問題があり、読者より鬼の首でも取ったかの抗議が…。で、あの誇り高い元名人の”メンツ”と”怒り”はいかほどにあったものか?想像するに現在でも冷汗と赤面の世界で、思わず背筋が熱く…。
「池田はなにをやっておるんじゃ」。私はさっそく元名人から指名手配の身になっていた。
例えば連盟へ行くと、「キミ、升田先生が家へこいと言っていたよ」。続いて、「なんだかエライ怒っているみたいな風だったよ」の一言が必ず付け加えられていた。それらを伝える人は、ただ”エライ怒っているらしい”と剣幕を伝えるのみで、その理由は解っていないが当の私は”エライ剣幕”の因を充分過ぎるくらい充分に知っていた。こいつあ、まずいことになったぞ。自分のまいた種ながら2、3日どうしたらいいのか悩んだ。が、悩んでいても解決にならず、いかように叱られようとも…の肚を決め元名人の家へむかっていた。
頭からカミナリが…の予想を覚悟して行ったのに、詰将棋問題を忘れたかにまったくそのことに触れず、むしろ日頃より機嫌良さそうな元名人の顔をみて、なんだあの件ではなかったのか?と訝しながらもホッとしていくのを覚えた。やがて、ビールが。そして、出前も。それにつれ私の気持ちも、すっかり自分のしたことを忘れかけ、いい気分になりかけていった。むろん酔うほどに元名人は談論風発で、帰るときに車代をくれるぐらい御機嫌と映った。が、くつを履き、「ありがとうございました」と、挨拶しようとした瞬間であった。
「キミ、生活が荒むと人間は嘘をつくようになる」「………」「誤ちは一度だけだぞ」。肚の底から絞り出す図太い広島訛りの入り混じった声と、独特の云いまわしでビシッと釘を…。さいごに強烈なひと言をくった私は、その夜どこをどうして帰ったかわからなかった。瞬間、元名人の眼は厳かなひかりを放っていたことだけが焼きついてはなれなかった。
そんなできごともあったが、耳に入ったか?入らずか?花村はいっさい黙っていた。と、云うよりうしろめたさを持つ私は近づかなかった…と云った方がはやかった。
(つづく)
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升田幸三九段の懐の深い叱り方。
本人は悪いことが痛いほどわかっているわけで、余計な言葉はいらない。
「誤ちは一度だけだぞ」が本当に救いのある言葉だ。
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升田幸三九段は、著書「王手」で次のように書いている。
叱るということは教えるということであって、それを叱らんのは、思いやりがないからです。思いやりがないから、叱ると反対に出てゆくんじゃないかと、恐れたりする。
(中略)
しかし、叱るといっても、ウマが合わんとか、気に食わんとかいって、まるで目のかたきにして、ぐじぐじといじめるのがおる。こういうのは、叱る、とはいいません。いびる、という。
後藤又兵衛は黒田官兵衛(孝高)に使えて一万石もろうとった侍ですが、官兵衛の息子の長政の代になって、浪人をした。長政がどうも又兵衛を嫌いで、ことごとにいびるもんだから、又兵衛もうるそうなって、浪人してしもうた。
この長政というのは、いつも戦争になると、真っ先にとびだしてゆく。それで手下が、”危ない、危ない”というておるのを聞いた父親の官兵衛が、
「あれでええ。さもなくば戦にまけるだろう。あれはわしのように参謀になって勝てる器じゃないわ」
といったという話が残っておりますから、官兵衛よりは一段、人物がこまかったらしい。こまければ、又兵衛のような大物は叱れん。
島津久光もそうです。斉彬は大人物だから西郷隆盛を自由自在に使ったが、久光は使うどころか、奄美大島に流したり、謹慎させたり、足ばかり引っぱっておった。やっぱりこれも、叱れんくち。
人を叱るには、叱る器でないとねぇ。今はその器がおらんということでしょう。
(以下略)
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黒田官兵衛にまで広島弁をしゃべらせてしまうのが升田流の真骨頂だ。
それにしても、升田幸三実力制第四代名人の数々の言葉、非常に説得力がある。