勝ちが見えてから全身が震えだした佐藤康光九段

将棋世界2001年3月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 さて、新年になってはじめての取材である。将棋会館内部は、何も変わるきざしがなく、この日はA級順位戦の佐藤(康)九段対島八段戦と、C級1組順位戦が戦われている。

(中略)

 1図から局面が進み、2図となっている。△3八銀と打ったところだが、これは控え室で予想してない手だった。

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 普通に指すなら、△7七桂成▲同銀△6五桂で、そのとき▲4四桂でどうか、などと研究されていた。つまり、先手は飛車を追われなくとも▲4四桂あるいは▲4五銀と攻めたい局面。それを▲3八銀と追ってくれたのだから、チャンス到来、というわけだ。

 もっとも島八段の方もそんな事情は百も承知。それで△3八銀と打つのが、らしい指し方とはいえる。

2図以下の指し手
▲4五銀△同金▲2四飛△2三歩▲3三歩△同桂▲4四桂△同金▲同飛△4三歩▲4一銀(3図)

 すぐ▲4四桂△3三玉▲3二銀も研究されていたが、攻めが薄いと思ったか、佐藤九段は▲4五銀と強硬手段を選んだ。

 なお、2図で▲6九飛は、△3六角で後手が手厚い。

 先手が決断すれば3図までとなる。この形、ほとんど寄り筋ではないか、と言われていた。しかし、島八段の将棋はやわではない。ちゃんと気付かない仕掛けが用意してあった。

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3図以下の指し手
△2二玉▲4三飛成△8六桂▲3四歩△1三玉▲3三歩成△7八桂成▲同玉△8九角▲8八玉△8七歩▲9七玉△6四角成▲7五桂(4図)

 ▲4三飛成と成り込んで、後手は受けなしに思える。次の▲3四歩が厳しいから。

 そういう先入観があるから、次の△8六桂は形作りみたいに見える。佐藤九段は念を入れて読み(残り十分の内の六分を使った)▲3四歩と打つ。勝ったと思っただろう。

 そこで△1三玉が指された。単に一手すきを受けただけの一時しのぎに見えるがそうでなかった。これが妙手で、佐藤九段は内心「あっ!」と暗くなった。勝ちと確信した直後だけに、ショックも大きかった。あの大山名人の伝説的な名手△8一玉の逃げを思い出させるのではないか。

 ▲3三歩成には、△7八桂成から△8九角と打ち、この角が遠くから自陣の2三の地点を防いでいる、という仕掛けだ。

 ここで一手すきがほどけ△6四角成の活用が生じた。形勢いずれともいえない。

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4図以下の指し手
△8八歩成▲同玉△7七桂成▲同玉△6五桂▲同銀△同馬▲2三と△同角成▲2五桂△2四玉▲3六桂(5図)

 ややこしい終盤のあやを説きあかすのは容易でないが、要するに先手玉に一手すきが続くかどうか、である。その間駒を渡してはいけない。

 島八段は△8八歩成から△7七桂成と攻めたが、▲同玉と取った瞬間、先手の持ち駒は金二枚と桂二枚となり、後手玉が一手すきとなった。

 △6五桂と攻めても詰まないから、ここで先手勝ちと決まった。△1三玉の妙手はあったが、僅かに及ばなかったのだ。

 特別対局室に行ってみると、△6五桂を▲同銀と取るところだった。佐藤九段は残り一分。対局室は緊迫の極みにあったが、ここで島八段が少考し、すこし室内の空気が緩んだ。四分で△6五同馬。このとき、うなずいた。どういう意味かわからない。

 佐藤九段の全身がけいれんをはじめた。三十秒と読まれるとさらに激しくなり、大地震に揺れているみたいになった。五十秒と読まれると▲2三と。ふるえる手つきで指すと、けいれんが止まった。島△同角成。また同じけいれんを起こした。

 緊張のあらわれなのだろう。しかし佐藤ほどの者が、桂が二枚になったら詰みあり、と読めぬはずがない。後手玉に詰みがあるのを読んでいながら、このような忘我の状態になるものだろうか。勝敗が決するときのプレッシャーは、勝つ瞬間にいる者にしかわからないのである。

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5図以下の指し手
△3六同歩▲4四竜△2五玉▲2六歩△同玉▲1七金まで、佐藤九段の勝ち。

 ▲3六桂と打つときは、すこしけいれんが収まった。指し手はつづくが、一手ごとに静まり、表情から興奮も薄れていった。最後に▲1七金と打つときは、もう平静に戻っていた。勝敗は終了の十分あるいは五分前に事実上決する。終わってから盤側にかけつけても遅いのだ。

(以下略)

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佐藤康光九段はA級順位戦4勝2敗で2位の時点での対局。

羽生善治三冠は終盤での手の震えについて、著書で「これは、勝ちを読み切ったものの、最後まで油断してはいけないと思ったときに起こる現象なのかもしれません」と述べている。

佐藤康光九段のこの時の震えも、同様の現象と考えられる。

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例えば3択のボタンを押して答えるクイズ番組で、何問も正解して最終の問題、これに正解すれば賞金1,000万円。そしてその最後の問題が「将棋の木村一基八段の大好物の食べ物は?」という問題だった場合、「これはBの鶏の唐揚げだ、やった!」と思いながらも、Bのボタンを押す手はガタガタ震えるのではないかと思う。

武者震い、寒さの震え、恐怖の震え、など、いろいろと震えの種類はあるが、最も幸せな震え方だ。