将棋世界2001年2月号、山田史生さんの巻頭エッセイ「美学と特売品」より。
永年の不摂生と運動不足で血糖値がやや高い。医師にいわれて、朝晩、なるべく30分から1時間ぐらい散歩するよう心がけている。この日も午前中、散歩に出ようとすると、ドラッグストアのちらしを見ていた家人が「ティッシュペーパーの特売をやっているので、散歩のついでに買ってきて下さい」と声をかけてくる。
「それだけでは何だから、他に何か買うものはないのか」と聞くと、「その特売品だけでいいのよ」と言う。特売品というのは店が客寄せのために仕入値に近いか、場合によってはそれ以下で売ることもあるかと思う。ついでに他のものも買ってもらい、それで採算がとれるということだろう。客はそんな店の戦略は承知の上で、他の品も多少買うのがマナー(?)なのではないか。
特売品一品のみを買って、それをぶらさげて帰ってくるのは店に対しても、自分に対しても何だかかっこうが悪い。しかし家人は「おかしな人ねえ。お店が値段つけて売っているものを買ってくるのが何でかっこ悪いの」と口をとがらす。
そういわれればそうかもしれないが、男の「美学」(大げさな表現だが)からいって私にはやはり抵抗がある。ティッシュペーパーと共に何か必要なものはないかと物色して、疲れ目用の目薬と、のど飴などを一緒に購入することとなった。
将棋にも「美学」という言葉が時おり使われる。詰みのある局面なら、しっかり読みを入れて詰めあげるのがトップ棋士の美学。それを必至をかけたり、自陣に手を入れたりして勝つのはかっこうが悪いのである。
しかし当然違う考えの棋士もいる。少しでも危険がありそうに思うと、攻めずにまず負けない形にすることを優先する棋士はけっこう多く、勝敗重視のプロとして、それはそれでやむをえないことであろう。また、時間つなぎのために歩のタダ捨てを繰り返したり、同一手順を何回か指したりするのは勝敗重視派。意味のない手は棋譜が汚れると、時間つなぎをやらないのは、芸術家タイプの美学派。
特売品の買い物と将棋では、次元の全く違う話ではあろうが、谷川浩司九段や佐藤康光九段、それに最近の羽生善治五冠ら、いわゆるかっこいい棋士たちは、特売品のみの買い物はしないのではないかと思う。
読者のあなたは、どちら派ですか?
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私は子供の頃、一人で店に買い物に行くと、持ち金全部を使わなければ店の人に申し訳ないのではないか、と本気で思っていたことがあった。
例えば、10円玉を3枚手に握りしめ菓子店へ行って、20円のお菓子を買おうとする。お金を払う時に、握りしめていた左手を開いて掌に乗っている10円玉3枚のうちから2枚を右手で掴んでお店の人に渡すわけだが、左手に残った10円玉1枚を店の人はどう思うだろう、持っているお金を全部使わないケチな子供だと思われるのではないか、と不安になりながら買い物をしていたものだ。(もちろん、残った10円で何かを買い足そうとまでは思わなかったが)
今から考えると変わった子供だったことになるが、これは美学に通じるものだったのだろうか。
大人になって酒を飲み始めてからは、頼まれなくとも宵越しの銭は持たない、ような飲み方になってしまったのは、この頃の影響があったからなのだろうか…
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そういえば幼稚園の頃、近所の店にプラモデルを買いに行って100円を払った、その100円硬貨が東京オリンピック記念硬貨だったので、店の人は「これ、オリンピックの100円硬貨だよ。本当にいいの?」と5回は言ってくれた。私は5回ともノータイムで「いいよ」と答えている。
記念硬貨のようなものに全く興味がないのは、今も昔も変わらない。