将棋世界1998年10月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。
その報せを受けたのは、8月10日午後9時過ぎだった。行きつけの酒場の女将が、常連客が話題にしているのを聞いて連絡してくれたのだった。村山君もその店には二、三度行ったことがある。
普段私は死亡欄には注意している方なのだが、なぜかその日は見逃していた。実際の死亡時刻(この文字を書くのがつらい)は8月8日午後12時11分であったが、本人の強い遺志により発表を少し見合わせたらしい。
怪童丸、志なかばにして斃れる。
その心中いかばかりであったろう…。
「天は時として酷いことをされる」
これは36歳の若さで、やはり道なかばにして斃れた、故山田道義九段の葬儀の席で弔事を読まれた作家で名観戦記者の故倉島竹次郎先生の言葉であるが、報せをうけて茫然とした頭に、ようやく浮かんできたのがこの言葉であった。
東京と大阪、そして年齢の違いといったこともあり、彼との付き合いは決して深くはなかった。というよりもほとんどなかったといった方が正確だ。それでも村山君が東京に移籍していた時期には、時々記者室で顔を合わせることもあり、その独特な雰囲気はやはり並ではない何かを漂わせていた。
彼とは二度酒席を共にしたことがある。先に述べた行きつけの酒場に、数人の若手とやってきた。別の席で飲んでいた私がそこに合流することになった。
どんないきさつでそうなったのかは、既に酔っていたのだろう、あまり思い出せない。とにかくその時の村山君のいでたちを見て私は驚いた。やたらと目立つのである。シャツの色は赤とか青とか黄色とかであり、それも花柄でまるで南洋のリゾート地の観光客のようであり、しかもそのシャツをズボンの中へ入れずに、ダラッと着流している。その上映画のメン・イン・ブラックに出てくるトミー・リー・ジョーンズみたいなサングラスでビシッときめているのである。それがあの、まあるい体型にマッチして妙に似合っているのが不思議であった。
「君、中々似合っているよ」というと照れたような満更でもない素振りを見せていた。普段は辺幅を飾らぬ男であったが、そういった茶目っ気もあったのだ。その日、村山君は大いに飲みかつ語った。彼が中々の論客であることを、その時初めて知った。
そこまでは良かったのである。そこから私のいけない所が出てしまったのだ。
私の酒は飲み始めると終点がないのである。お開きとなるのが無性に寂しいので、深夜、もう12時を回っていたろう、皆に「これから、家で飲もう」と言い出したのである。これが失敗の元となってしまった。皆も村山君の身体の心配もあったろうが、先輩の誘いを無下に断ることも出来ずに、酔っ払いの言葉に同意した。その時の村山君は機嫌も良く、元気そうだったので、私にも油断があった。家についてしばらくは皆でワイワイやっていたのだが、そのうち村山君が手洗いに行ったきり、中々戻ってこない。
誰かが心配して様子を見に行くと、どうやら反吐しているとのことである。
いかに脳天気の私でもこれはいけないと心配になり、「大丈夫か?」と聞くと「大丈夫ですが、今日はこれで帰ります」という。それならこれから自動車を呼ぶからというと「いえ平気です」といって帰っていった。こちらの頭も朦朧としており、その時誰かが付き添っていったかの記憶もなく、その後も頭に引っかかっていたが、何日か後に対局して勝っているのを知り、ひと安心した。
後日、村山君が兄貴分として慕っている滝誠一郎七段に、その事を話すと、あの大きい目を更に大きく見開いて、あきれたような顔つきをされたので、もしかしたら村山君は私が思っているより体調が良くないのでは、と感じ申し訳ないと心で詫びるよりなかった。
それでも、その後もう一度飲む機会があった。私の知り合いでライター志望のAという男が、村山君を誘って家に遊びにきたのである。彼は酔っても頭は明晰であり、ヘロヘロの状態にはならないが、逆に理屈っぽくなるところがあった。
Aは村山君に漫画本の話ばかりをするので、最初は話を合わせていたのだが、そのうちに心外である、といった顔つきになって「僕は漫画ばかりを読んでいると思われているけど、本当は推理小説が好きなんだ」と言って色々な作家や作品名を挙げて語っていた。私の知識が乏しいので、彼の話を伝えることが出来ないのが、今となってはもどかしい。
そして彼はAに「Aさん将棋ライターになりたいのなら、棋士に好かれるようにならなければ駄目ですよ」とアドバイスをしていた。その時も村山君の知られざる一面を見た思いがした。
そのうちウイスキーが利いてきて、私とAが言い争う形になり、気まずくなってその日はお開きとなった。
それからが村山君の真骨頂である。
その事があり、私がAとの付き合いを避けているのを、どこで耳にしたのか彼は私とAの仲違いを、あたかも自分の責任のように思い込んでしまい、私に「Aさんと仲直りしてあげてください」とAを庇うのである。
実は私がAと言い争ったのは、Aの村山君に対する態度が、あまりに礼を無くしているのを見かねてのことだったのであるが…。そこに強い男の持つ優しさが見えたのである。
剛気朴訥の男、村山聖、君の天衣無縫の指し振りを、もう二度と見る事は叶わぬが、病気との凄絶な戦い振りは、我々が忘れかけていた将棋を指せる有難さを教えてくれた。深く御礼を申し上げます。しばしの別れ、さようなら。
(以下略)
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真部一男八段(当時)は村山聖八段(当時)との付き合いを、「決して深くはなかった。というよりもほとんどなかったといった方が正確だ」と書いているが、深くはなかったかもしれないが結構交流があった、という方が正確だと思う。
真部八段の行きつけの酒場は、将棋会館がある千駄ヶ谷と隣駅の代々木近辺にあった。
村山聖八段を連れた若手棋士たちは、真部八段と飲みたくて、そこに行けば真部八段と遭遇する確率が高い酒場へ行ったのかもしれない。
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『聖の青春』に出てくる、村山聖八段が滝誠一郎七段(当時)に新宿の伊勢丹で選んでもらったアロハシャツとサングラス。
『聖の青春』以外で、その服装の様子が細かく描かれているのはこの文章だけだと思う。
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真部九段はこの9年後に亡くなっているが、
「しばしの別れ、さようなら」
という言葉が心に響く。