昨日からの続き。
将棋世界1985年9月号、名棋士を訪ねて「東海棋界を守って五十年 板谷四郎九段の巻」より。
―終戦後の先生の昇進は早かったですね。昭和二十五年にはB級1組で6勝2敗でA級八段に。この年は第一期九段戦でも準優勝をされたり、木村名人と八段昇段記念の対局をされたり、ずいぶん活躍の年でした。
板谷 木村名人との将棋はひどい負け方でなあ。もちろん出来も悪いし、将棋も弱いから負けたんだが、もう一つ私はその時、えらい心に引っかかることがあった。というのはその対局の半年くらい前に木村名人のお父さんが亡くなったんだ。それを私は全然知らなかった。誰も教えてくれんかったし、新聞に出たのかもしれんが気づかんかった。で、お悔やみもせんし、何の挨拶も私はせんかった。そのことをあとでどんなに後悔したか、分からんよ。なんという馬鹿なことをしたのかと思って、その対局の時は名人の顔をまともに見ることができんかった。こんなことは誰にも言ったことがなかったけど、そういうことがあったよ。
―先生の現役時代の仲間というと。
板谷 私は今言ったような経歴だから、若い頃からの友達というのはいないんだ。歳も違っとったし。それでも四段になった頃印象に残っとるのは関口慎吾という男。これは六段で戦病死したが、いい男だった。将棋も強かったし、生きとりゃ升田なんかといい競り合いをしとったと思うよ。梶さん(故・一郎九段)なんか、いくら攻めてっても弾き返されとったもんなあ。四段の頃、私が名古屋から握り飯を持って対局に行くんだ。貧しいから、その握り飯もあったり、なかったりなんだが、その関口さんがある時、私に握り飯をくれて「板谷さん、昇段したあとの将棋が大事なんだ。これを絶対に勝つよう努力した方がいいですよ」と激励してくれたことがあった。いい男だったし、強かった。だけど六段で七連勝くらいした時に召集されて、南方の島で戦死してしまったよ。
あと、惜しかったと思うのが和田庄兵衛と金高清吉(故人・八段)の二人。この二人も早死したが、生きとりゃ名を残したはずだよ。強かった。
―他の棋士たちはどうですか。
板谷 私は酒をムチャクチャ飲んでなあ、戦争が終わって将棋が指せるということで有頂天になって飲んでばかりおった。うちに金を持って帰ったことがないくらいだ(笑)。それでも棋士で酒飲み友達といえるのは塚田さん(故・正夫名誉十段)と高島さん(一岐代九段)だけだった。塚田さんとはどういうわけか馬が合ってよく飲んだ。その塚田さんで思い出したけど、私は自分の将棋が強いと思ったことは一回もなかった。いつも素人に毛がはえたような気がしとるわけだ。事実、自分の指した将棋で、見れる棋譜というのは一局もないよ。見るに耐えんというのばっかりだ。
それで昔、仲間と飲むことがあると「あんたは自分が将棋が強いと思うか」とよく聞いたんだ。すると十人のうち八人までは、まんざら冗談でなく「強い」と言うんだなあ。それで自分が弱い弱いと思うのは私にとって、大きな欠点なのかとも思った。だけど事実だから、これはしょうがない。私はしがみつくようにして上がったんだからな。勝つことだけを考えて、必死になっとったわ。才能がなくても一生懸命やるということは恐ろしいもんで、ただその激しい闘志だけで勝つこともあるんだ。だけど引退してから落ち着いて、その時に「ああ、今ならもっといい将棋が指せる」と思ったことがあった。今でも、そう思っとるよ、私は気持ちが激しすぎたんだ。
塚田さんとは、そうしてつき合ううちにうちとけてきた。するとこう言ったら悪いがあの人の欠点が分かってきた。将棋は強かったよ、それは。だけど人間的な欠点が分かると恐さがなくなるんだ。自慢するわけじゃないが、私は塚田さんには負け越しとらんと思う。塚田さんが私のことをイヤがってなあ。勝ち抜き戦なんかで私と当たると代わりに升田九段が出てくるんだ(笑)。だけど私は嬉しかったよ、塚田さんのそういう気持ちが。
升田九段は歳は私の方が上だが、将棋は向こうの方がだいぶ先輩だ。会うことはそんなに多くなかったが、一度「板谷さん、あんたは大野さん(故・源一九段)と真剣をやるといいですよ」と言ってくれたことがあった。私の将棋は愚鈍なんだ。それに比べて大野さんの将棋は升田一流の表現によると「早瀬を昇っていく鮎」なんだ。軽くてさばきがうまいんだ。それで、大野さんと指せばきっと啓発されるところがありますよというわけだ。
だけど、その大野さんが、また私を苦手にしとったんだ(笑)。あの人も、人間的に欠点のある人で、なんとなく指しやすいんだ。三、四番指して一番も負けとらんと思うよ。しかし、将棋の質は強かったよ、あの人は。七段時代に木村名人と指した頃の強さなんか話にならんわ、あの木村名人が弾かれとるもん。ただ升田さんや大山さんと比べたら根性が全然違うわそりゃ。もし大野さんにあの二人みたいな根性があれば、あの人が天下を取っとったと思うよ。ワシは。
あと、こないだ亡くなった花村な、あの男とは思い出があって、私が二段で奨励会に入ってまもなくだと思うが、名古屋で初めて会って指したんだ。私が二十七で花村は四つ下だったかな。豊橋の方に強いのがおるということ聞いてな。そして初めの四、五番は指し分けだった。それで徹夜したんだが、結局私が三番か四番負け越したんだ。そうして、うちに帰ってから残念で残念でなあ、蒲団かぶってどんだけ泣いたか分からんよ。木村名人にも言われとったしなあ「板谷君、素人に負けるようじゃダメだよ」ってなあ。その言葉が頭に染みとるしなあ。
それから何年か経って花村が五段で連盟に入ってきた。私もその時五段だったと思うが、すぐ七段になったんで花村とは八段になるまで指さんかったと思う。
面白い男だったが、ああいった男を連盟に入れたというのはやっぱり木村名人の識見というやつだと思うよ。当時の素状なんかを考えると、反対する者の方が多かったと思うよ。だけどあの男の素質とか将棋界に果たした役割とかは、それをおぎなって余りがある。木村名人が立派だったということだ。
―先生は昭和三十四年に引退されました。まだ四十五歳の若さでしたが。
板谷 今の人には当てはまらんことだが私は棋士というものは指し盛りを過ぎたら引退するもんだと思っとった。勝てんようになったら、それが当然というか。それで、最初からこの名古屋の将棋道場を開くつもりだった。こういったビルに(東海本部・板谷将棋教室は名古屋市の繁華街の中心、栄町の坂種ビル5階にある)将棋道場をもってきたのは私が初めてだと思う。もう、ここで二十六年になるからな(笑)。食うだけはなんとかなる。
―現在の名古屋の将棋界をどうご覧になりますか。
板谷 名古屋のような田舎では、どうしても将棋よりも囲碁の方がお金を使う人が多い。碁席は名古屋に百軒以上あるが、将棋の道場は四、五軒だ。将棋ファンの根が、もっともっと張らないかんわ。しかし、私はもう引退の身だし、名古屋の将棋界の現状といっても実際には進にまかしてるところがほとんどだ。それで今日は、進を助けて名古屋の将棋界も盛り立ててくれとる鬼頭さん(孝生氏・東海本部友の会幹事長)が見えとるから、鬼頭さんの話も聞いてみてくれ。
鬼頭 大先生は厳しいんですよ(笑)。確かに中京の将棋界というのは碁に比べると押されているところがあるかもしれません。でも、進八段に続いて石田和雄八段、大村和久七段、北村文男五段、中田章道五段と、中京にもプロ棋士の根は確実に生えてきています。私達としては今、第三、第四のA級八段が生まれることを熱望してるんですよね。そうすればその根がしっかりと張り、大きな樹に成長することにもつながります。そのためにも、名古屋にも将棋会館を建てて、有望な奨励会員を育成し、プロの対局、そしてアマチュアとプロの交流の場にしていくことが必要じゃないでしょうか。
板谷 名古屋の将棋界の現実というのは決して甘いものではないが、将棋界全体を見たら、私のやっとった頃に比べたらそりゃあえらい進歩だ。谷川さんも中原さんも、人柄も立派だし、本当にいい名人だ。将棋界は素晴らしく大きくなったし名古屋もこれから、それについていくことだろう。私もそれを楽しみに見守りたいと思っとるよ。
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「人間的に欠点のある」は、例えば大野源一九段であれば自らも認める「慌て者」ということになるのだと思う。慌て者なところが欠点かどうかは難しいところだが、板谷四郎九段はわかりやすい言葉で「人間的な欠点」という言葉を使ったのだろう。
大野源一九段は、対塚田正夫九段戦の終盤必勝の局面で王手をかけられて、玉を逃げても合駒をしてもそれまでだったものを、敵玉を寄せにいって、玉を取られてしまったことがある。
また、相手が1分将棋だと、自分が秒を読まれているわけでもないのに慌ててしまい、悪手を指すこともあったという。
大野九段は、時間がないとついつい慌ててしまうことを自覚していたので、新幹線に乗る時も、発車時刻の1時間前にはホームに到着する習慣になっていた。
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板谷四郎九段の「相手の人間的な欠点が分かると恐さがなくなるんだ」。
これは、例えは良くないが、非常に怖い幽霊が駄洒落を一言でも話してしまったら全く怖くなくなる、というようなイメージなのかもしれない。
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塚田正夫名誉十段は、棋士と飲みに行くと1円単位で割り勘にすることで有名だった。その根底には勝負の相手と貸し借りは一切作りたくないという思いがあった。
一方の、日本一の攻めと言われた高島一岐代九段は、とにかく人と飲んだら奢らなければ気が済まないタイプ。
塚田名誉十段と高島九段が大阪で二人で飲んだ時は、「割り勘主義」対「大阪に来たからには絶対に払わせない主義」が勘定の時に真っ向からぶつかり合って、喧嘩寸前までいったという。
残念ながら、酒場への支払いがどのような結論になったのかはわかっていない。
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若い頃の升田幸三実力制第四代名人が兄弟子の大野源一八段(当時)の棋風を表現した「早瀬を昇っていく鮎」。
大野源一九段は、「受けるだけで相手が間違うことをじっと待っている」という江戸時代以来の振り飛車の考え方を一気に変え、「攻める振り飛車」、「振り飛車の囲いは美濃囲い」を確立した現代振り飛車の元祖であり、振り飛車名人と呼ばれた。
その捌きは誰も真似出来ないような絶妙さで、名人芸を通り越して神業と言っても良いほどだった。
しかし、大野九段が振り飛車を本格的に指し始めるようになるのは戦後のことで、「早瀬を昇っていく鮎」は、大野九段がまだ居飛車党の頃に言われた可能性もある。
大野九段の居飛車→捌く居飛車
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よくよく考えてみると、木村義雄十四世名人は、板谷四郎九段をはじめ、花村元司九段、清野静男八段、木村嘉孝七段と、非常に個性豊かな弟子を持っていたことになる。
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このインタビューは板谷将棋教室で行われたもので、鬼頭孝生さんも板谷四郎九段に呼ばれていたのかもしれない。
鬼頭孝生さんは棋道師範で、2013年には大山康晴賞を受賞している。板谷進九段の無二の親友だった。
鬼頭孝生さんをはじめとする方々の愛知県での普及の努力の積み重ねが、藤井聡太四段を育むことに繋がったと言っても過言ではないだろう。
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板谷四郎四段(当時)が昼食を持ってくることができなかった時に握り飯をくれて、「板谷さん、昇段したあとの将棋が大事なんだ。これを絶対に勝つよう努力した方がいいですよ」と激励した関口慎吾六段。
涙が出るような優しい人柄のようだ。
今年の8月12日の毎日新聞に、関口慎吾六段の話題が出ている。
→昭和史のかたち:太平洋戦争で散った棋士=保阪正康 (毎日新聞)