昨日からの続き。
将棋世界2003年10月号、炬口勝弘さんの「棋士たちの真情 花はこれから―山崎隆之五段」より。
関西将棋会館のすぐ近くにマンションを借りて住み、たまに連盟から頼まれる道場の指導対局や、イベントの出演以外は、研鑽一筋、修験者のような日々を送っている。レッスンもしていない。
「いえ、将棋をね、そんなに突き詰めて、三浦先生(弘行八段)みたいにやってる(蛇足ながら1日13時間勉強している)わけではないんですけど」と照れはするが、毎日のように、会館の棋士室で、モニターに映るリアルタイムの将棋を研究したり、また奨励会の若手と1手20秒のVSで実戦感覚を磨いたりしている姿が見られる。
研究会は、谷川研(メンバーは谷川・畠山鎮・井上)と師匠の森研の2つだけ。月1回だが、どちらもきついという。森研は、若い奨励会員や研修会の子供らが中心で、
「教えてるよりも、なんか貰ってる部分の方が大きい。若い子の方が自然に将棋やってる時間長いです。何気なく凄い量やってる。ぼくのように、ちょっとでも年取ってくると”やってる感じ”になっちゃうから。いい刺激になります」
(中略)
中学1年で奨励会(関西)に入会した。同じ広島出身ということから、最初、村山聖九段門にという話もあったそうだが、「まだ師匠になるのは早いから」と断られ、森信雄門になった。
「失礼な話ですが、僕の方から師匠を決めるのに頭を下げたということはないんですよ。通ってた広島将棋センターの本多先生が、すべてやって下さって……。そういう縁で、悩む必要もなく、すごい素晴らしい師匠と出会えてラッキーだったです」
半年間、大阪で母親と一緒に住んだあとは、師匠宅で内弟子生活に入った。平成7年、阪神淡路大震災で被災するまで……。
震災では、同期の兄弟弟子(船越隆文当時奨励会2級・福岡出身・享年17歳)の死も見ている。師匠が一番期待していた弟子だった。そして隆之少年も、奨励会の例会には広島から毎月、バスで大阪に通うようになった。
内弟子時代のことを聞いた。
「よく師匠には迷惑かけたというか、よく自分で学校に電話して休みますと言ってボウリングに行ったりとか……。中学も転々としているんです。まあその頃は、感謝する気持ちがまるでなくて、ものすごく生意気で我がままで、内弟子のくせに、内弟子らしいことは何もしてないんです」
当時は師匠も連盟の理事をしていて忙しかった。
「食事のたびに、広島ではこういう風に料理しない、広島ではどうだ、こうだと言うんで、ここは広島やない!って叱ったこともありましたよ」(森)
当人も言う。
「そうなんです。そういうこと、食い物のことに口を出すような、ものすごく失礼なガキだったんですよ。それ以来、師匠は内弟子を取ってないんですよ。もう大変だって。弟子は取ってるんですが。飽き飽きしたんでしょう。震災後の対応が人としてひどいんで、今でもそうですが、自己中心で……。師匠には”帰れ”って言われて(笑)」
名伯楽・森信雄師匠と、その弟子山崎隆之の物語は、師匠の結婚ということもあって、”村山聖物語”ほどの濃密さはなかったようだ。
(中略)
「実はこのインタビュー、出るかどうか迷ったんです。将棋界で長く活躍されてきた人が出るものと思ってましたので。若手というなら、渡辺君とかの方にいったらどうですか、とも言ったんです」
会ってすぐ、のっけからそんな調子でインタビューが始まったのだった。
「ドラマがあればいいんですが、ドラマがないんです。上がり下がり(栄光と挫折)がないから、ドラマの生まれようがないでしょう。酒は飲めない、博打はやらない、豪快な人ではないし……」
確かにネガティブな話ばかりで、師匠・森信雄六段の口癖を借りれば「冴えんな」だったかもしれない。しかし、その謙遜、その韜晦の裏側に、口にこそ出さないが、限りない野心や自信がみなぎっているのを痛感した。繊細さの裏に豪胆さもある。
擬態だと思った。擬態にも2種類ある。目立たないように見せる隠蔽的擬態と、逆に強力、有毒な種に、色彩・形態、さらに行動を似せることによって、敵の警戒を呼び、敵に食われないようにする標識的擬態と。山崎五段の場合は、明らかに前者だ。
しかし、尺取り虫やナナフシが、枯れ枝や小枝にまぎれて捕食から逃れようとするのとはまた違う。
勝負師というのはハンターだ。ヒョウやトラだ。その擬態、斑紋が森林内の陰影に紛らわしく、獲物に近づきやすく、敵を捕食しやすいのと似ている。真の強者は強がったりしない。
(以下略)
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「名伯楽・森信雄師匠と、その弟子山崎隆之の物語は、師匠の結婚ということもあって、”村山聖物語”ほどの濃密さはなかったようだ」
正確には、森信雄七段と山崎隆之八段の物語は、森信雄七段と村山聖九段の物語に比べれば相対的に濃密さは少ないが、絶対的な尺度では非常に濃密な師弟関係、という表現になるのだろう。
内弟子時代とその直後の山崎少年にとっての得難い経験、そしてそれが糧となり、山崎八段の現在の非常に魅力のある人柄に繋がっているのだと思う。