福崎文吾王座(当時)誕生

近代将棋1991年12月号、日本経済新聞文化部の表谷泰彦記者の「不思議な力 妖刀福崎新王座に」より。

 福崎新王座が誕生した第39期王座戦は常識という”座標軸”からは、ややずれたところで展開した五番勝負となった。言いかえれば妖刀、福崎の意外さと不思議さに富んだ力が、王道中の王道を行く名刀、谷川に十分な力を発揮させなかったということになろうか。

 五番勝負が始まる前に行われた加藤治郎名誉九段、二上達也九段、高柳敏夫八段(又四郎)による予想座談会では、全員が”常識的には谷川の方が上”という点で一致しながらも「福崎には、そう言い切れないところがある」(又四郎)という声も出た。そして実際に、常識からはずれた結果となったのである。

 今期王座戦トーナメントでは中原誠名人と米長邦雄九段の二人が有力挑戦候補とみられていた。ところが、そのうちの中原は準決勝で、米長は決勝で、それぞれ福崎の軍門に下ることになった。中原は妙に力が空転、米長は攻め急ぎのやり過ぎの感じで、ともに不本意な一局となった。ことに米長は二回戦での対塚田泰明八段と準決勝での対南芳一王将戦があまりに鮮やかだっただけに、とても同じ人とは思えないほど意外な敗戦であった。

 中原も米長も”福崎将棋”が発する独特の波長の電波に脳波を狂わされ自滅したともいえそうだ。決勝戦のあとの検討で福崎が米長の常識にない手や読みを示すと「そうやって、ぐしゃぐしゃ、やってくるんですね。もうイヤ!」とイラ立つ場面が何度かあった。

 米長と比べ、感情の振幅が小さく、精神的に安定している谷川なら”福崎波”に接しても心を乱されることは、さしてあるまいと思われた。が、今改めて、今シリーズをふり返ると、その谷川も”福崎将棋”に微妙な影響を受けていたことが、はっきりする。

 第1局(9月3日、東京・紀尾井町の福田家)で後手番の谷川は4手目に早々と8五歩と突く=A図)。

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 最近では保留するのが常識になっている8五歩だけに、控え室では”谷川王座の挑発だな”の声があった。

 つまり、8五歩を早々に突くことで谷川が”福崎さんは最近居飛車党のようですが、昔の振り飛車できてもかまいませんよ”と挑発。気合負けを嫌った福崎が”谷川さんがそうおっしゃるなら、飛車を振りましょう”と敢えて相手の挑発に乗ったのだといえよう。

 A図から▲7七角△5四歩▲8八飛の向かい飛車になり、その後穴グマへと進み、控え室では「福崎先生も役者だな!」(将棋誌記者)の声が出た。発売されたばかりの週刊将棋紙上で福崎が「振り飛車は忘れました。居飛車でしょう」と語っていたからである。

 さらに同紙で福崎は「もっとも窮地になれば非常手段として穴グマをやるかも」とも言っているだけに「初めから窮地なのか」の皮肉も飛び出した。しかし、この展開は福崎の”責任”というよりは、谷川の4手目の8五歩に誘発されたものであり、”福崎役者”説はいささか気の毒である。

 それにしても、盤上、盤外にかかわらず、常に温厚さで知られる谷川が何故に早々と”挑発行為”に出たのであるか?

 福崎が負け越している数少ない相手の一人であるというニガ手意識も作用したかもしれないが、やはり福崎が発する電波に谷川の心もついつい昂ったということであろうか。

 福崎が穴グマで先勝したあとを受けた第2局(9月17日、有馬温泉・中の坊瑞苑)で後手番の福崎は再度穴グマを採用、それを予想していた谷川は、午前中から「独特の穴グマくずしの工夫をこらし」(立会人・原田泰夫九段)、午後に入るや4筋から攻勢に出、たちまちにして有利な局面を築いたかに見えた。ところがせっかくの努力と工夫の成果が一手のミスで吹き飛んでしまうことになる。

 B図は福崎が2七角の勝負手を放ったのに対して谷川が4七角と応じたところ。

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 この手が控え室のテレビ画面に映った途端に、速報係の藤代三郎五段が「こりゃ大変だ!3五桂を見落としたのでは?」と叫び、実際、福崎も3五桂と指し、谷川はたちまち苦境に陥ってしまった。

 その後谷川の必死の巻き返しで形勢不明かの声も出たが、94手目に福崎は意表を突く奇手(6六桂)を放ち、寄せ切った。

 一度有利な局面を築くと、最後まで光速の寄せで押し切ることの多い谷川の突然の失速に関係者は皆首をひねった。王位を防衛したばかりで、意気大いにあがっているはずだけに余計に意外であり、原田九段などは「親友、中村修(七段)が美人アナウンサーと婚約したので、さすが冷静な好青年も動揺したのかな」と谷川の不振をいぶかっていた。

 第1、2局と挑戦者が連勝。どうやら”妖刀村正”の不思議な魔力の世界で五番勝負は展開し始めたか、と思わせた。しかし、第3局(9月24日、山形県上山温泉の葉山館)で谷川は一矢を報い、カド番をしのぎ、”名刀正宗”の貫禄を示す。

 穴グマで連勝した福崎は何故に第3局で矢倉の横綱、谷川を相手に相矢倉を選んだのか。まさか”振り飛車・穴グマだけでなく居飛車もできますよ”と誇示したかったわけでもあるまい。そのうち、福崎自身がどこかの誌上でその心境を語ってくれるものと期待している。この将棋は「歩得の挑戦者が王座の攻めを誘ったが、谷川の攻めを受け損なって一気に敗勢」(立会人・大内延介九段)となった一局で、改めて矢倉では谷川の方が一枚も二枚も上なのでは、と思わせた。

 神奈川県鶴巻温泉の陣屋での第4局(10月1日)は当然、福崎の穴グマとの予想に反し再び相居飛車へ。といっても、今回は福崎が主体的に選んだというより、谷川に誘導されたというべきかもしれない。9手目の谷川の6八玉の二段玉は「相手が振り飛車でくることを見越した手であり、相手が居飛車党の場合多少危険もある」(加藤名誉九段)とのこと。つまり谷川は9手目の6八玉で”どうせ穴グマでしょうね”問いかけたわけで、福崎が、”いやいや、二段玉なら私は居飛車で行きますよ”と応じたのだと言えよう。

 福崎は超急戦策をとり、敢えて桂損をしながら、ソデ飛車の急襲に出たが、谷川は桂得の厚みを巧みに保って押し切った。

 これで2勝2敗のタイ。といっても後から連勝の谷川の方に勢いはある。それに元々”常識的には谷川”ともみられていただけに、正直のところ、谷川の防衛は確定的に思えた。そんなムードで迎えた第5局(10月24日、大阪福島・関西将棋会館)で福崎は大方の予想通りに穴グマを採用した。

 谷川も穴グマを予想していたらしく、その穴グマ対策は鮮やかで、7・8筋の攻防で、桂香得となり「夕食前に終了か」(立会人・伊達康夫七段)というほど、形勢は谷川に傾いたかにみえた。しかし福崎は不思議な力を発揮、ジリジリと追いあげ、形勢は混沌とし、夜戦に入ってついに千日手が成立してしまった。

 王座戦手合で初の千日手に、あわて気味の筆者は、30分の休憩中の谷川から「朝刊に間に合わなくしてしまいました」とわざわざ声をかけられ、大いに恐縮してしまった。

 指し直し局は相矢倉となり、観戦記者の又四郎こと高柳八段が「福崎はどうして穴グマにしないのか」としきりに不思議がるなか、急ピッチで駒組みが進み、たちまち谷川有利に局面へ。読みの神様こと村山五段がテレビをみながら「上の方(谷川)がよい」と断定、控え室は”谷川の光速の寄せを見るだけか”との空気になる。

 ところがである。その谷川が意外なもたつきをみせ、福崎は谷川の3五角の一瞬のスキをとらえるように96手目、9六桂の鬼手を放つ。この一手で劣勢となった谷川は65分の持ち時間を使い切って必死に頑張ったが、一歩及ばなかった。

 谷川の意外な乱調は何故かのか。打ち上げの席で谷川は「冷静になれたら・・・」と述懐したという。やはり福崎波は谷川の気持ちを揺れ動かす不思議な力があったのであろう。

 盤を離れれば仲良くカラオケを楽しみ、一緒に風呂にまで入った谷川、福崎の二人が盤上作戦では死力をつくし火花を散らしたシリーズであった。そして本来なら勝って当然の名刀正宗が妖刀村正の不思議な切れ味に屈したといえようか。妖しい魅力にあふれた新王座誕生である。

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近代将棋同じ号の、故・池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 王座戦最終局を取材する。先番を握った福崎さんは中飛車穴熊だった。どっちが勝つにしろ「最後は穴熊で決着をつけてほしい」と願っていたので、▲1八香を見たときは胸が高鳴った。その後、谷川さんが桂香得して後手優勢を思わせたが、棋勢はもつれて、最後は何と千日手になってしまった。

 指し直し局は相矢倉。これにはいささかガッカリしたが、しかし内容は抜群に面白かった。指し直し局というのは闘争心の残りカスで戦うようなもので、往々にして凡局になりやすい。しかし、この将棋は、終盤でのギリギリの寄せ合いがすさまじく、最終局にふさわしい迫力ある名勝負となった。

 双方秒読みのなか、「形勢は二転三転。どちらが勝ってもおかしくないムードだったが、最後、福崎さんの玉がかろうじて詰まず午前0時過ぎに新王座が誕生。

 このシリーズ、福崎さんは洋服で通したが深い理由はないと思う。「和服は冬物しか持ってない」と福崎さんは言っていたから揃えるひまがなかったんだろう。

 感想戦終了後、NHK衛星放送スタッフが新王座に「来年は和服?」と聞いた。それに対する答えが、いかにも福崎さんらしかった。「和服は高いですからねェ。安い和服があれば・・・」

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王座戦が開始されたのは1953年からでタイトル戦となったのが1983年から。

タイトル戦になった以降を見ると、塚田泰明王座が誕生した1987年を除く1989年までの6期間が中原誠王座の時代。

王座=中原誠十六世名人のイメージの時代だった。

そして、中原王座を破って谷川浩司王座が誕生するのが1990年。この谷川浩司王座-福崎文吾八段の五番勝負が行われる前年のことだった。

羽生善治王座が誕生するのは、この谷川浩司王座-福崎文吾八段戦が行われた翌年の1992年。

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福崎文吾九段は、1986年に十段位を獲得しており、この時が初タイトルだった。前年に中原誠十段を倒した米長邦雄十段を破っている。

中原誠十六世名人から見ると、王座最後の年が1990年、十段最後の年が1985年。福崎九段は二度とも、中原十六世名人を破った棋士を敵討ちのように翌期に倒していることになる。

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福崎九段は居飛車党であることを公言していたが、ファンは福崎流穴熊を期待した。

この王座戦最終局ではお茶にまつわるエピソードもある。

この時のことを福崎九段が語っている。

敵にお茶を送る

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王座戦では現在のところ、2期以上王座を獲得した棋士はすべて名誉王座になっている。

中村太地王座が来期防衛できれば、王座戦史上、非常に大きな出来事となると思う。