弦巻勝さんの「ぼくのアルバムから」(高島一岐代九段)

将棋世界1994年4月号、弦巻勝さんの「ぼくのアルバムから」より。

 高島一岐代先生の想い出

 今の自分を書くのは恥ずかしいなあ……昔の自分を書くのは尚恥ずかしいと思います。

 高島先生を撮らせていただきに大阪へ行ったのは20年近く前になると思います。先生は足が御不自由でいらしたが、羽織袴の正装で僕を迎えて下さった。

 当時の僕は一端のプロ気取りで芸能人やタレントさんの撮影をしていました。それらはいくつかあるパターンに当てはめ、外、歩き、室内、寄り、ワイド、ミディアム、長玉(望遠レンズの意)と技術ばかりに走った観念的で心ない写真だったと思います。先生はそんな僕ですら全面受けで足をひきずり外を何度も歩いて下さった。今の僕にこれは撮れないと思います。夜には先生の心からの友、そしてファンの人たちを集って宴席を設けて下さいました。日本酒が数本転がったと思います。僕はそんな時間が好きではありませんでした。帰りの電車の時間を気にする僕に先生は二段重ねの豪華な折詰めを誂え持たせて下さいました。今思い出すと先生のやさしさに涙が滲みます。腰が抜けるまでどうして酒を御一緒できなかったのか、と思います。そして猫の頭を撫でる先生の写真がなぜ撮れなかったのかと思います。

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高島一岐代九段は1916年生まれで藤内金吾八段門下。

その鋭い攻めから「日本一の攻め将棋」と呼ばれていた。

1949年に順位戦A級。名人戦、王将戦で挑戦者となったが、病気のため、1962年にA級のまま引退。高島弘光八段、脇謙二八段、東和男八段の師匠にあたる。1986年に71歳で亡くなっている。

「行儀のよい将棋指しやがって、ちっとも解説するところあらへん」

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高島一岐代八段(当時)と塚田正夫九段(当時)が、大阪で二人で飲んだ時のこと。

高島八段は、飲んだ時は勘定を全部自分で持たなければ気が済まないという主義だった。

塚田正夫九段は、徹底的な割り勘主義。

結果は、塚田九段が押し通して割り勘になったが、高島八段はこの時かなり腹を立てたと言われている。

勝負師らしい愉快なエピソードだ。

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「今思い出すと先生のやさしさに涙が滲みます。腰が抜けるまでどうして酒を御一緒できなかったのか、と思います。そして猫の頭を撫でる先生の写真がなぜ撮れなかったのかと思います」

会社の出張で大阪へ行った時、慣れない大阪で飲んでいるよりも、早く東京に戻って、六本木のよく行く店に行きたい、と思うようなことが私も若い頃はあった。

だから、弦巻さんの気持ちは痛いほどわかる。

若いことも素晴らしいことだけれども、年齢を重ねることも素敵なことだと思う。