将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(2017年12月30日)

amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。

 

 

先崎学五段(当時)「え、そんな声出してませんよ。だってテレビじゃないですか」

今年の5月29日に亡くなられた元・近代将棋編集長で将棋ペンクラブ幹事の中野隆義さんから、このブログのコメント欄に寄せられた数々の棋士のエピソードより。

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羽生善治五冠(当時)が語る、各トップ棋士の印象」についてのコメント。

〔羽生善治五冠(当時)が先崎学五段(当時)の印象を、「イメージは派手ですが、意外にアベレージヒッターだったりする。形にもこだわる。思いきりのいいところが長所)」と語っていたことに対して〕

私めも、ホントにそう思います。
常人とは思えない言動に惑わされがちですが、先ちゃんの本質は違うところにあるのです。と、彼とマージャンを何度か打っているうちに、そう思うようになりました。
きっと、先崎流は自分のそういうところがバレるのがイヤというか照れくさくて、わざとふさげていたのでありましょう。
思い切りのよいところといえば、先崎流がNHK杯戦で優勝したとき、私めは収録現場に居合わせておりまして、大敵南芳一流に対した先崎流は中盤の勝負どころで「はあーーーあああっ」という腹の底から搾り出すような気合もろとも、ひと目そんなムチャなと思える飛車切を慣行したのでした。局後「飛車切ったときの掛け声は凄かったですね」と言いましたら。「え、そんな声出してませんよ。だってテレビじゃないですか」と返され、凄いのは声じゃなくて、その思い切りと集中力だったのかと感心したことがありました。

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将棋会館で行われる対局をマラソンとすると、持ち時間の短いNHK杯戦は100m競争。

短時間ではあるが対局中ずっと深く集中しているわけで、ほとんどの棋士は、言葉を発していたとしても、どのような表情をしていたとしても、全ては無意識の中。

私もNHK杯戦の観戦で、はじめの頃は「終盤、上を見上げて非常に厳しい表情をされていましたが、あの時の形勢判断は?」のような質問をしていたことがあったが、そもそも対局中の棋士は盤上以外のことは何も覚えていないということを二度目で知り(二例とも全く覚えていないということだった)、それ以来、対局中の表情や発せられた言葉についての質問はしないようになった。

表情と形勢が連動しないところが将棋の難しいところだ。

 

 

「怒っている人に正論を言ってもダメですよ」

今年の5月29日に亡くなられた元・近代将棋編集長で将棋ペンクラブ幹事の中野隆義さんから、このブログに寄せられたのコメントより。

2012年9月、近代将棋を創業した永井英明さんが亡くなられた時のコメント。

永井英明さんに初めて会ったのは、四十年ほど前になるでしょうか、関東大学将棋連盟の幹事をしていました私めが、学生将棋の大会結果や原稿やらを当時小田急線の豪徳寺駅近くにあった近代将棋編集部に持っていったときのことだったと思います。
それまでに何度か同様の用事で編集部に出入りしていました私めは、密かに近代将棋に入れてもらいたいと思っておりまして、この機を逃してなるものかとばかり、いきなり永井さんに「近代将棋の編集部に入れてください」とお願いしたのでありました。いきなりのお願いに永井さんはさすがに少し驚いたようでしたが、やんわりと丁寧に応対してくれまして、
「あなたなら、もっといいところに就職できるでしょうに」とは言われましたが、どうもはっきりと断られてはいないようだなと勝手に判断した私めは、さっそくまずはアルバイトでお願いすることにして、そのまま翌年の春から首尾良く正社員の道へとなだれこんだのでありました。
バイトをしているときに、豪徳寺駅前の住吉(居酒屋です)にて、森敏宏編集長から「中野君。永井社長はね、去る者は追わず来る者は拒まず、なんだよ」と教えてもらったときは、やったーっ、下手なてっぽも一発で当たることがあるんだ、ってなもんで、嬉しさのあまりついつい大飲みしてしまいました。
入ってしばらくして永井さんに教えてもらったことで今でもしかと心にあるのは「怒っている人に正論を言ってもダメですよ」です。どうも私めは、今ではそうでもありませんが、若いころはかなり理屈っぽいところがあったようで、正しいことが百パーセントの正義である的な脳味噌をしておりました。永井さんはそんな私をしっかり見ていてくださり、的確なアドバイスをしてくれたのでしょう。
あ、それと「生きていれば、必ずいいことがありますよ」というのも。

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中野さんは立教大学を卒業後に1974年に近代将棋に入社。

1985年頃、近代将棋の経営が少し苦しくなった時期があった。

永井英明社長は日本将棋連盟のある理事に「社員を一人、職員として採用してもらえないものか」と内々の打診を行ったところ、「中野さんを指名しても良いのか」との理事からの内々の回答。

永井さんは「こちらから無理にお願いをしていることだから、誰を指名されても構いません」。

そういうことで中野さんの日本将棋連盟への移籍が決まった。

中野さんは将棋世界編集部、そして書籍課で活躍をされた。

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1996年、近代将棋が経営危機となって、永井さんは近代将棋の経営を引き継いでくれるところを探していた。

「近代将棋に何かあった時には真っ先に駆けつける」と考えていた中野さんは、田中寅彦九段などとともに近代将棋の経営を引き受けることとなる。

しかし、誌面を初級者向けに刷新したものの、部数を急激に伸ばすことは難しく、間もなくナイタイグループが近代将棋の経営を引き継ぐことになった。

社長兼編集長だった中野さんは、役員ではなくなったものの、その後も編集長として近代将棋を作り続けた。

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「怒っている人に正論を言ってもダメですよ」

たしかに、もの凄く説得力のある言葉だ。

 

 

 

大山康晴十五世名人「一人でも私に勝てたら全員にご馳走しますよ。手合いは好きにしていいから」

今年の5月29日に亡くなられた元・近代将棋編集長で将棋ペンクラブ幹事の中野隆義さんから、このブログのコメント欄に寄せられた数々の棋士のエピソードより。

上野裕和五段が指導対局に際して、下手に「天使」、「普通」、「鬼」の中からお好きなカードを引いてもらうってのはいいですね。指導対局の相当な好手だと思います。
駒落ちというと真っ先に思い出すのが、大山流の超鬼バージョンです。
ある日、大山と腕っこきと自負している十数名の連盟職員とが、駒落ちで対決したことがありました。大山からは「一人でも私に勝てたら全員にご馳走しますよ。手合いは好きにしていいから」という、とんでもなく職員に有利な条件が提示されました。
初段から三段連中は二枚落ち。四、五段連中はおおむね飛車落ちか角落ちで挑みました。この手合いは個々の下手としては少しきついかなと思われましたが、一人でも勝てば良いのですから、全体の勝負の面から見れば下手が大いに有利です。
しかし、ただ一人、オレが職員の中じゃ一番強いだろうとおそらく思っていた小泉さんが、下品にもなんと二枚落ちという誰が見てもメチャクチャに有利な手合いで挑んだのす。小泉さんは普段の言動からは一見すると楽観的なイケイケタイプのようでいて、子供ができるやその子が歩けるようになる前に庭の池を埋め立てちゃうなど、実は非常に用心深い根っこをはやしているのでした。
大山対腕っこき職員駒落ち戦は粛々と進み、最後の一人に五段だけど手堅く二枚落ちで挑む小泉さんが皆の期待を一身に背負って登場しました。
オレの前に誰か一人くらい勝ってると思ってたんだがなあ、と軽口を叩いてリラックスムードの小泉さんに、自分が勝てると思ってるんでしょ、と大山がジャブを放ち、では始めましょうかねと続けて一礼を交わし試合開始です。
さすがの大山も五段に二枚落ちは辛いでしょと思い、盤測で勝負を見守っていますと、別段下手がおかしな手を指したとは見えないのにいつの間にか終盤戦では互いの玉が詰むや詰まざるやの難解な局面になっているのでした。
終局の瞬間のどよめきはまるで名人戦七番勝負最終局で決着がついたかのようでした。まれに見る二枚落ちの大熱戦に、ご馳走にありつき損なった応援の職員らはそんなことは忘れて、大山の強さに興奮していたものです。
そんなことがあってから、私めは小泉さんとよくマージャンの卓を囲むようになりました。用心深くてパンチ力がある打ち手はとても強力で、対戦していて面白く戦いがいのある相手です。
ゲノゲの きたろう

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例えば、作家や芸能人の「駒落ち十番勝負」のような雑誌企画があったとして、10人の棋士が登場するとしたら、必ず負けていたのが大山康晴十五世名人。その次に負けていたのは二上達也九段。

棋道奨励の意味から、本気を出さないというわけではないが、アマチュアが困るような手は指さなかったと思う。

上野裕和五段の指導対局での「天使モード」に当たる。

しかし、この時の大山十五世名人VS将棋連盟職員軍団戦では「鬼モード」。

居飛車穴熊を相手にする時も、特別に変わったことをするわけでもなく、美濃囲い→高美濃→銀冠の普通の指し方をして勝っていた大山十五世名人。

この二枚落ち戦でも、特に裏定跡を使うでもなく、普通の形で戦って勝ったと考えられる。

「一人でも私に勝てたら全員にご馳走しますよ。手合いは好きにしていいから」

一生に一度でも、このような言葉を使ってみたいものだ。

 

 

羽生善治四段(当時)の初めての順位戦

将棋世界1986年8月号、「第45期順位戦C級2組」より。

 49人の大世帯で始まったC級2組。5月の定時棋士総会で「順位戦改革特別委員会」が発足。順位戦制度が持つ問題点をここ1、2年で改革しようという動きが連盟内部に生じ、先の委員会発足となったわけである。

 当面の問題としては、他のクラスとの関連もあるのだが、増えすぎたC2をどうするか、直接関係してくるC2の棋士にとっては大変な問題であり、以前にも増して昇級しなければ、順位を上げなければ、という意識が強くなっていることは確かである。

(中略)

 そんなエポックを、これから迎えるだろう時に、従来通りのC級2組の順位戦が、6月30日、7月1日の両日にわけて行われた。これは〆切の関係で読者にお伝えできないのが残念であるが、なんといっても注目の的は、どんじり49位の羽生善治新四段。かつて加藤(一)、中原あるいは谷川がたどった道を歩むのかどうか。このクラス最大の話題となるであろう。

 年平均5~6人の新四段が誕生し、その都度、周囲から期待をかけられるが、大型新人と騒がれながらも、2年3年とこのクラスに居ると、並の四段といわれてしまう。

 十段リーグ活躍中の有森ですら、今年で3年目、

「他でいくら活躍しても順位戦で上に行かなきゃ意味がないです」。若手に限らず、これが本音であろう。

 本誌では、前期泣きの入った泉、そして有森、同じく関西の浦野、最後に半分期待をこめて羽生の4人を昇級候補としておく。

(以下略)

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将棋世界1986年9月号、「第45期順位戦C級2組」より。

 C級2組49名、大きくふくれ上がったこのクラスは一見同じ待遇を受けているようだが、実は21位を境として月々に受け取る手当には大きな差がある。

 C1組以上では一クラスの差は3割程度といわれているが、ここではもっと差がつき、手取りで倍以上違う者も出ているそうだ。

 これは5年前に降級点廃止、定年制発効という制度改定に伴ってのもので、待遇面では一クラス下がっても直接C1組に上がれる可能性がある、という夢を持たせてくれ、という下位の希望もあり、人数増加にC3組新設という方法をとらず、いわばC2、C3同居ともいうべきこのような変則的リーグが出来たわけである。

 しかし5年を経てみるとやはり人数等に不合理な面が目立ち、各界より順位戦制度全般の見直しを求める声もあって制度委員会の発足となった。

(中略)

 いずれにせよ変更時に一番問題になるのはC2組であることは間違いないので、皆今期中に昇ってしまいたいだろうし、昇級不可能な者も少しでも順位を上げようと目の色が違い、昨年までは目立っていた夕食休憩前の終局も、途中大ポカが生じた将棋を除いては見当たらなくなった。

 さてC2組も2局までが進行したが早くも明暗が分かれ始めた。

 そのうちで最年少棋士として期待を集めている天才羽生四段は関西遠征の第1局で固さからか途中金損の必敗形となったが、森五段の失着に救われて辛勝。一流の棋士に必要な運の良さを持つことを証明した。順位は最下位といえ、他棋戦を含めて連勝中の今、大いに注目しつづけたい素材である。

 他には2連勝者がまだ12名もいるのでしばらくは星の進行を待つよりないといった状況である。

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将棋世界1986年10月号、「第45期順位戦C級2組」より。

 休み番の数人を除いて、C2の3回戦が8月25、26日の両日東西の将棋会館で行われた。

 耳目を集めたのが、明治45年生まれ74歳の小堀清一九段と昭和45年生まれ15歳の羽生善治四段の、現役最年長と最年少の対局。孫ほども歳の差がある相手との対局はやりづらかろうと思うのがハタ目であるが、将棋一筋の小堀には眼中になく、将棋も若い。飛先も換え角交換しての腰掛銀という激しい内容のもの。劣勢になってからの小堀の頑張りがすごく、終了は午前0時33分。

 確実に寄せ切った羽生は3連勝。他棋戦もあわせるとこれで14連勝。まさに破竹の勢いである。この少年、日々に強くなっているという感じ。

将棋世界掲載の写真

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羽生善治四段(当時)の順位戦での初めての対戦相手は森信雄五段(当時)。

森信雄五段の弟子の村山聖三段(当時)は、この年の11月に四段になる。

必ずや村山三段にとっての好敵手となる羽生四段を、森信雄五段はどのような思いで感じ取っていただろう。

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この期の順位戦C級2組で羽生四段は8勝2敗で7位。C級1組へ昇級するのはこの1年先のこととなる。

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小堀清一九段-羽生善治四段戦は、敗れたものの小堀九段精魂の一局。

対局終了が午前0時33分。感想戦が午前8時まで続いた

小堀清一九段と羽生善治四冠

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羽生四段が誕生して間もなく、将棋世界では「天才少年激突三番勝負 羽生善治四段-阿部隆四段戦」という特別企画が組まれたが(羽生四段の2勝)、その後は特にクローズアップされることはなく、このような「棋戦の動き」のページで活躍が紹介されていた。

今から見ると、誌上での羽生四段に関する記事が意外なほど少なかったことが分かる。

本格的に羽生四段が誌面に登場し始めるのは、翌年の6月号「新人賞・羽生、タイトルホルダーに挑戦」から。