二上達也九段「自分が勝てば誰かが負ける。しかしその人は悲しんでも他の誰かが救われている」

将棋世界1986年12月号、中平邦彦さんの「痛恨の一局 二上達也九段の巻」より。

 二上九段のことを語るとき、太宰治のイメージが浮かび、含羞という言葉が思われるのはなぜだろう。文学と将棋はまるで違うし、生き方だってちっとも似てやしない。片や無頼を生きて自ら命を縮め、一方は温厚を生きて悠揚せまらない。

 しかし太宰と二上がだぶるのは、その類まれな才能と、その裏にひそむ優しさ、自らを客観視し、てらい、恥じる含羞にあると思う。

 優しさとは、相手の心の動きを敏感に感じとり、さりげなく気を遣うことだ。その心遣いを相手にまともに悟られたら恥ずかしい。そうした温容の、目に見えぬほどの動きをとらえる作業が文学なのだろう。

 例えば太宰はこんなことを書く。

『難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は灯台の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ぼうとして窓の内を見ると、今しも灯台守の夫婦とその幼き女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思った。おれの凄惨な一声で、この団欒が滅茶々々になるのだ、と思ったら喉まで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く拉し去った』

 こういう優しさもあるのだ。誰も見ていない美しい行為だが、作家は見ている。だからこそ作家でもある。

 しかし、将棋の棋士がこうした優しさを感じとるとしたらどうなるか。勝負という黒白の世界に果たしてプラスであろうか。将棋は芸術であり、その道を探求するには得がたい感覚だが、どろどろした人間の戦いにはマイナスに働く。

 二上のことを親友の竹内厳太郎氏が書いている。二上が新八段になったころだ。

『私は彼の笑った顔、特に眼鏡を外して笑う顔が好きだが、その少しはにかんだような人の良い微笑の中に、あの秋霜烈日の趣を持った、激しい将棋とは全く別の穏和で寛容な人柄を見出す。彼が友達に対して篤いことは、彼と交わったすべての者が等しく感謝するところである。東京在住の友人で、大なり小なり彼の厄介にならない者はないが、その場合、相手に決して負担を感じさせるような態度はとらない。自分の義務だというような顔をしているのだ。一緒にいるだけで何かほのぼのとした、嬉しくてたまらないものを与える人間という風に私は彼を感じている。一言にして言えば、とにかく涙が出るぐらい良い奴なのだ』

 そして竹内は、そんな優しい二上の中に一抹の不安を抱く。その甘さと、インテリ特有のてらいを見抜いてこう書く。

『彼は名人に特別の幻想は抱いてはいない。強者も永久に絶対者でありえないことをよく知っている。「来年は名人だな」と言ったら、「あまり早く名人になるのは考え物だ。落ちなければならない時のことを考えるとね」と言って笑い合ったことがあるが、これを彼の自信と解釈できないことはない。しかし、より強く勝負の世界の厳しさと儚さを捉えた言葉のように私には思われる。どこと言って難を見つけるのが難しい彼ではあるが、もし強いて弱点を見つけるとすれば、未だ一度も失意の世界に沈んだことがないということ、即ち負けの苦しみを味わったことがない点だ。そしてもう一つは、勝負の世界の儚さを見てしまうインテリの習性、自己というものに常につきまとっている一抹の哀愁ではなかろうか』

(中略)

 函館の高校を卒業して上京、プロ入りした二上は破竹の快進撃をした。

 昭和25年、付け出し二段で入ったときが18歳。そして6年後にはもう八段になっていた。神武以来の大天才といわれた加藤一二三でさえ、入門から八段まで7年かかっている。二上の6年は棋界の記録である。

(中略)

 四段、五段、六段、七段と連続昇段した二上は、昭和29年、ベテラン陣がひしめくB級1組順位戦に登場した。

(中略)

 昇段のスピード記録こそ意識しなかったが、二上は早くA級に昇りたかった。当時は棋戦も少なく、対局も少ない。将棋界はまだ苦しい時期で、マスコミも地味だったから、新聞に名前が出るにはA級になる以外になかった。それに当時の連盟ではA級でなければ発言力もない。下位者がしゃべっても「下級者黙れ!」と言われた。

 すいすいと上がってきた二上にとって、B級1組も通過点に思えた。自信にあふれ、プレッシャーもなかった。

 しかし鬼の棲家のB1はそんなにたやすくない。出だしから調子が出ず、3勝2敗という苦しさだった。下位だから不利だが、あと全部勝てば上がれると考えていた。

 そんな6局目に迎えた相手が板谷四郎八段だった。

(中略)

 痛い敗戦であった。

 これで3勝3敗。順位を思えば絶望的に見えた。これまでとんとん拍子に昇ってきて、のぼせて天狗になっていた心に冷水を浴びせた1敗であった。

 淡白な二上はここであきらめたが、あと全部勝てば結果的に上がれたのだ。その甘さを痛いほど悟った年でもあった。二上はこのあともう1敗を喫し、8勝4敗で最終局に臨んだ。

 相手は6勝6敗の村上八段。村上は勝てば残留だが、負ければ降級の勝負である。一方、二上も昇級を五十嵐と争う形になり、二上勝ち、五十嵐負けなら待望の八段になれる。

 つらい勝負を二上は勝ち、村上は陥落した。五十嵐も勝ち、二上は結局頭ハネを食い、連続昇段は足踏みした。村上は連盟で二上と顔を合わせても挨拶をしなかったという。

 いろんな思いを抱かせた順位戦であり、痛い一局だったが、このときの体験が薬になってあとで効いた。勝ちと思ったら軽率になること。優勢な将棋を勝ち切るむずかしさを知ったこと。そして、レースは最後まで投げたらだめだと悟ったこと。自分が勝てば誰かが負ける。しかしその人は悲しんでも他の誰かが救われていること。

 翌年、二上はこれらをすべて生かした。そして10勝1敗のぶっちぎりの星でA級入りを果たすのである。

 だが、二上の将棋人生の関門は、実はこのあとにあった。A級からタイトル保持者へ。その門をくぐろうとする二上の前に、巨人大山の壁が大きく立ちはだかった。

34年 王将戦 大山 4-2 二上
34年 九段戦 大山 4-3 二上
35年 王将戦 大山 4-2 二上
36年 九段戦 大山 4-2 二上
37年 名人戦 大山 4-0 二上
37年 王将戦 二上 4-2 大山
38年 棋聖戦 大山 3-0 二上
38年 王将戦 大山 3-0 二上
39年 名人戦 大山 4-2 二上
39年 王位戦 大山 4-2 二上
40年 十段戦 大山 4-3 二上
40年 棋聖戦 大山 3-2 二上
41年 棋聖戦 二上 3-1 大山
41年 十段戦 大山 4-1 二上
41年 棋聖戦 大山 3-0 二上
42年 名人戦 大山 4-1 二上
42年 十段戦 大山 4-1 二上
44年 王将戦 大山 4-1 二上
46年 棋聖戦 中原 3-1 二上
50年 棋聖戦 大山 3-1 二上
50年 棋聖戦 大山 3-0 二上
53年 棋聖戦 中原 3-1 二上
55年 棋聖戦 二上 3-1 米長
56年 棋聖戦 二上 3-0 中原
56年 棋聖戦 二上 3-0 加藤
57年 棋聖戦  森 3-0 二上

 タイトル戦登場実に26回、うち獲得5回。他の棋士とは6度戦って3勝3敗の五分なのに、大山との戦いは血涙の歴史だ。

 上の表をじっと見ていると、大山の強さと、二上の悲惨が目にしみてくる。20回タイトルを戦い、18回も敗れ去った二上の心境とはどんなものだったろうか。

 人は言う。

 もし大山がいなければ二上は名人を5期はとったろうと。勝負の世界に「もし」や「れば」はないが、時代の運命、人間の運を感じてしまう。もし二上の前に立ちはだかった人が大山以外なら、二上は天下を取っていたろう。

 二上の人間としても温容と、将棋の峻烈は表裏一体のものであり、その分母は含羞ではなかったか。ほんのひと掃きの含羞ですら、勝負の天才大山は見逃さず、弱点として攻め込んだと思う。盤上盤外を問わずに。

 もし二上に、あと一押しの非情があれば、もっと大山を倒せたかもしれない。

(中略)

 そのころ、七段になっていた内藤は初めて二上から酒に誘われた。感激であった。新宿で毛ガニをごちそうになったことを今も覚えている。

 そのとき二上はこう言った。

「将棋とは所詮遊び事なんだよ。だから名人になれば松下(幸之助)さんと対等というのはおかしいと思う」

 昇り調子で勝ちまくっているときである。そういうときは天狗になりがちで、こういう言葉は出ないものだ。その冷静な眼に内藤は感嘆したと述懐している。

 インテリの言である。客観の眼である。それは才能を豊かに伸ばすが、ぎりぎりの勝負の場面で足を引っ張る。優しさが、相手の一番いやがる手を指させない。

 30年も昔、まだ20代だった二上のことを語った親友竹内の言は、二上の優しさとインテリへの懸念だった。その言が、いみじくも当たってしまった30年ではなかったか。

 そんな二上が、50歳に近づいたころから棋聖戦3連覇という目を見張る仕事をした。

 米長、中原、加藤という当代一流の面々を一蹴したのである。原田九段は「二上の方が淡々としていた。だから駒が伸びた」と評している。

 だが、あと1期勝てば永世棋聖になれるのに、森に0-3で敗れ去った。「いい将棋を無理矢理負けた印象だった」と原田九段。その辺が二上の不思議であり、魅力でもある。

 本当はこの人、何も欲しいものはないのではないか。なにしろ「健康法は?」の質問に「嫌なことはしない主義」と答える人なのである。

 私事で恐縮だが、わが恐妻は今も二上九段のことになると無条件に応援する。理由はわが家に泊まったとき、きっちり布団をたたんで音もなく出て行った礼儀正しさにあった。同じような思いの人は無数にいるのではないか。新宿の飲み屋で皿を洗っていたおばさんたちは、少しどもりながら多額のチップをくれた貴公子のことを決して忘れまい。

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今日は羽生善治竜王就位式。

歴史の「たられば」は存在しないが、もし羽生竜王の師匠が二上達也九段ではなかったら、現在の羽生竜王とは異なる羽生竜王になっていたのではないだろうか。

師弟として絶妙な組み合わせだったと思えてならない。