中原誠名人「いやいや。私はB型ですからね(笑)。そういうことはしませんよ」

将棋世界1985年8月号、「これが中原名人だ!本音直撃インタビュー」より。

聞き手は、田中寅彦八段(当時)、バトルロイヤル風間さん。

本誌 今日は3年ぶりに名人復位を果たした中原名人にお越しいただき、プロ代表の田中寅彦八段とアマ代表のバトルロイヤル風間さんに、いろんな質問をしていただくことにしました。皆さんよろしくお願いします。

田中・風間 名人復位、おめでとうございます。

中原 どうも(笑)。まあ、お手柔らかにお願いしますよ。

本誌 バトルロイヤル風間さんは、無名ですが最近売り出しの将棋漫画家です。

中原 知ってますよ(笑)。週刊将棋でね。将棋はどのくらいですか。

風間 どのくらいの顔に見えます?

中原 昔はわかったんだけどナー。高柳道場の手合係やってたからね(笑)。

風間 3級か5級くらいなんです。お恥ずかシー。ボクは将棋以外のことを専門に質問させてもらいます。(キッパリ)

中原 まあ、そう言わないで、何でも聞いてください(笑)。

本誌 はじめに第1局から第5局までを軽く振り返っていただきましょう。田中八段には、プロの目で見たポイントを指摘してもらいます。

田中 まず第1局、あの大逆転の将棋ですね。ポイントと言っても難しいんですけどねえ。

中原 プロの思うポイントってのは、わかりにくいからね。

(中略)

本誌 第2局、この急戦相掛かりがすっかりこの名人戦の主役になりましたね。

中原 そう、偶然ね(笑)。これは小林(健二)先生の専売特許ですからね。

風間 秘密兵器じゃないんですか。

中原 いやいや。私はB型ですからね(笑)。そういうことはしませんよ。

田中 この将棋は、終盤谷川さんの攻めがわずかに足らなかったということになってますけど、2図の局面で△6六金と打たれると、受けがわからなかったんですけど。

(中略)

本誌 さて、第三部はこれまでおとなしかったバトルロイヤル風間さんの素人気ままインタビューです。

中原 いよいよ風間さんの出番ですね。

風間 どうも。いやあ将棋は難しいですねえ。見てても全然わかりませんでした。わからないついでにいろいろ聞かせてもらいます。

中原 なんでもどうぞ(笑)。

風間 第3局の時、ボクも2日間対局場に連れてってもらったんですけど、見てるだけでグッタリ疲れちゃったんです。対局者ってのは、きっとものすごーく疲れると思うんですけど。

中原 そうね、一局指すとかなり疲れますよ。やっぱり。

風間 例えて言うとどのくらいですか。

中原 あんまり疲れたって言いたくないんだけどね(笑)。でも、家に帰ってきて寝ると、ぐったりしちゃいますね。

風間 タイトル戦の1日目は、今までに何度も指した形になりますよね、それでもその間はちゃんと考えてるんですか。

中原 それは考えてますよ。ずーっと。ボクは遊んでる時間は少ない方ですからね(笑)。

風間 2、4、6局と同じ戦法を採られましたけど、あれは研究済みの局面に谷川名人(当時)を誘導したわけですか。

中原 そんなことはないですよ。研究といってもそんなに研究しているわけではありませんし、研究した通りにいくわけでもないし。経験の多い形になれば、少し有利ってことはありますけどね。

風間 3-2になった時は、一瞬ヤバいなって感じだったと思いますけど、そんな時、普段の生活まで暗くなりませんか。

中原 フフ、そうねえ、3連勝した時にちょっと浮ついた気持ちになりましたからね、普段の生活も。だから2番負けてかえって元に戻りました。

風間 米長棋聖が四冠王になった時”米長時代到来”って言われましたよね、その時、中原名人はどんなお気持ちでした。

中原 フフ、いやボクもそう思いましたよ。フフフ。しばらくすごく充実されてましたから。

風間 名人はこれで三冠王になったわけですけど、これで将棋界の名人も落ち着くところに落ち着いたという気がするんですよね。考えてみればこれはすごいことだと思うんですけど、やっぱりご自分でもすごいと思いますか。

中原 ハハ、いや、思いませんよ。だけど地位というより、名人戦のような大きな舞台で将棋を指せるだけでもありがたいっていう気持ち、そういった謙虚な気持ちが名人戦9連覇の後半の頃は薄れてきてましたね。だから、そういった気持ちを失わないようにこれから指していきたいと思います。

風間 名人に復帰して一番嬉しかったことはなんですか。

中原 やっぱり二人の大先輩の名人が成し遂げたことを自分もできたということですね。自分にとってはそれが常に大きな目標として目の前にありましたから。

風間 ということは、もうカムバックできないと考えたことはありますか。

中原 ええありましたよ。しばらく調子が悪かったし、今期も最初はとても挑戦者になれるとは思えなかったですし。

風間 名人を取って年収はどのくらい増えますか。ズバリ。

中原 フフ、名人戦の賞金もボクが持っていた頃よりだいぶ上がりましたし、そうですねえ、2,000万円くらいははっきり違うでしょうね。

風間 やっぱりニコニコするわけですねえ、それじゃ(笑)。第3局でボクが見に行った時はすごいいい天気だったんですよね。そんな時”外はあんなにいい天気なのにどうして将棋なんか指してなくちゃならないんだろ”って思いませんか。

中原 それは全然思いませんね。思いませんけど、天気は少し悪いくらいの方が集中できますね。

風間 できれば、いつ頃まで名人でいたいですか。

中原 フフ。でも田中先生が許してくれないだろうからね。田中先生が挑戦してくるまでは名人でいたいです(笑)。

田中 是非お願いします。

風間 対局中に相手の顔が憎ったらしくなることはありませんか。

中原 顔見て?顔はあんまり見なかったですけどね。でもたまに見るとあまりいいことなかったですね。谷川先生の顔は闘志が湧きにくいですよね。やっぱりあどけないし…。年齢相応の顔をされているなと思いました。そういえば、相手をにらみつける人もいるらしいんですけどね(笑)。どうですか、田中先生。

田中 いや、ボクはあまり自分では意識してないんです。知らないうちに見てるらしいんですけど。

風間 将棋のどんなところが一番面白いんですかね。

中原 難しいところかな。それが長考しているうちに少しずつわかってきたりした時…そんな時ですね。

風間 中原先生はまちがいなく天才だと思うんですが、自分でどんな時に”アッ、オレって天才だ”と思いますか。

中原 いえ、ボクは天才だなんて思ったことないですから……。将棋界で天才と思った人は一人もいませんよ、正直言って。これから現れるかもしれませんが。

風間 米長棋聖が勝負論の本を出してますけど、ああいうのは参考にしますか。

中原 フフ、参考にしますよ。

風間 自分以外で誰が一番強いと思いますか。

中原 一人だけ?そう、やっぱり大山先生です。

風間 じゃ、ライバルは。

中原 目標にしているのは大山先生ですね。ライバルは他にもいっぱいいます。

風間 将棋を指したくない相手は。

中原 強い人ですね。(深刻に)あと同門ね。フフ。

風間 長考し過ぎたりして、脳みそがウニみたいになって働かなくなることがありませんか。

中原 ウニ?ハハ、よくありますよ。第4局の終盤なんか完全にウニですよ、ウニ。第6局もウニだったね、途中。

(以下略)

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「タイトル戦の1日目は、今までに何度も指した形になりますよね、それでもその間はちゃんと考えてるんですか」

「名人を取って年収はどのくらい増えますか。ズバリ」

「対局中に相手の顔が憎ったらしくなることはありませんか」

「3-2になった時は、一瞬ヤバいなって感じだったと思いますけど、そんな時、普段の生活まで暗くなりませんか」

「米長棋聖が勝負論の本を出してますけど、ああいうのは参考にしますか」

など、バトルロイヤル風間さんが、”聞いてみたいけれどもとても聞きにくいこと”に見事に斬り込んでいる。

しかし、よくよく考えてみると、答えによっては全て4コマ漫画のネタになりそうなことばかりだ。

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この頃のバトルロイヤル風間さんは将棋4コマ漫画で週刊将棋にデビューしたばかり。

略歴は次のように紹介されている。

本名、国籍不明。昭和31年東京で生まれたらしい。法政大学をA7個で卒業後、某出版社へ入社。学習雑誌の編集に携わるも3年で退社。現在は謎のマンガ家として売り出し中。元プロレスラーらしい。

元プロレスラーは冗談だが、バトルさんは全日本プロレスを受けて、ジャイアント馬場社長と面接をして合格している。もちろん、これはレスラーとしてではなく職員として。

しかし、バトルさんは出版社に就職する。

この時の上司が、週刊将棋を発行している毎日コミュニケーションズに転職をして、その元上司(週刊将棋初代編集長の大崎千明さん)から声がかかったことが、バトルさんが週刊将棋で4コマ漫画を描くきっかけとなった。

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バトルさんは法政大学をA7個で卒業。

私は別の大学でA21個だった。

この21個の中には、卒業研究(誰でもAになる)、教育実習(Aにならなかったら相当問題がある)、先生が所属サークルの顧問だったのでAにしかなりようがない仏語2A、仏語2B、仏語3A、仏語3B、などが含まれるので、私もバトルさんとあまり変わりはないと思う。

そもそもAが21個とはいえ、9段階評価で下から3番目に位置付けられていた。

会社に入ったら、Aの数が1桁だったという同期が多かった。会社は明らかにAの数が少ない人間を選んで合格させたのではないかとしか思えない状況だった。

数年経ってから人事部長に聞くと、少し変わった人間を積極的に採用する方針だったので、結果的にAが少ない人ばかりが残ったのだろうということだった。

たしかに、会社は自由で明るい雰囲気だった。

それはそれで良いのだが、私も変わっている人間だと認定されていたことになり、少しだけ落ち込んだ。