将棋世界2004年9月号、「追悼 原田泰夫九段」より。
中原誠日本将棋連盟会長(当時)の弔辞。
本日ここに、故・原田泰夫九段の葬儀にあたり、謹んでご霊前にお別れの辞を申し上げます。
わずか1週間前の7月7日でした。原田先生が弟子の近藤五段に付き添われて、突然将棋会館へ来られました。
ちょうど理事会の途中でしたが、ごあいさつにみえた原田先生が「何かスケールの大きい話をしていますか」とおっしゃられたことが今も耳に残っています。
体調がよくないことはひと目で分かりましたが、わずか数日でお亡くなりになるとは思いもよりませんでした。
先生は新潟県分水町の出身で、昭和12年、加藤治郎名誉九段に入門されました。関根十三世名人が新潟県にみえたとき、その指導対局される美しい姿に魅了されたことがきっかけときいております。
昭和19年四段、昭和24年26歳で八段に昇進され、このあとA級には通算10期在籍されました。
先生の識見、人望は20代から注目され将棋連盟の運営面を任されるようになりました。特に昭和36年、38歳の若さで日本将棋連盟会長に就かれ昭和42年まで6年間務められました。その間、懸案であった将棋会館建設などの事業に取り組まれ、現在の基礎を作られたといっても過言ではありません。
ここで個人的な思い出を少しだけ述べることをお許しください。
私が初めて原田先生にお会いしたのは小学校3年生の時、宮城県塩釜市においてでした。先生にとても優しく接していただき、二枚落ちと平手を教えてもらいました。当時は私もまだ弱くどちらも完敗でした。
そのとき色紙も頂戴しました。「心清技自妙」(心清ければ技おのずと妙なり)これがきっかけで書道塾へ通ったりしました。
棋聖戦で初めてタイトル戦に挑戦したころ、先生から「自然流」と命名されました。自然に指して無理なく勝つ、の印象からと聞きましたが、本当にすばらしい名称をいただいたと感謝しています。
先生は命名の達人でして、内藤九段を「自在流」、米長永世棋聖を「さわやか流」とつけ、自然に自在にさわやかに生きるということを、よくエッセイなどに書かれております。
先生は昭和57年に引退されましたが、引退後も講演、文筆、そしてときには書道展も開催され多彩なご活躍をされました。
将棋会館の理事室には、先生が大書された「界・道・盟」の額が掲げてあります。
将棋界、将棋道、将棋連盟の略ですが、まず一番に将棋界という大きな観点から物を見なければ、という先生のお言葉が聞こえてくるようであります。
先生は将棋界発展のために偉大な功績を残されました。改めて深く敬意を表します。
先生の助言、卓見をうががえないのは残念ですが、今後はわたし達後輩があとを引き継いで、「界・道・盟」の心を忘れずに頑張っていきたいと思います。
原田先生、どうぞ安らかにお眠りください。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
平成16年7月14日
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将棋世界2004年9月号、米長邦雄永世棋聖の「教育界への情熱」より。
原田先生の生き方は、常に大道があって、それを明確にされた事が多くのファンの支持を得られたものだろうと感心する。
(中略)
義務教育に将棋を。
これが大先生の生涯の夢であった。同郷の田中角栄先生が総理大臣になった時に、教育界をどうすべきかが議論された。この時、角栄首相の驚くべき一言がある。
「教師を元気にさせることだ。それには日本中の教師の給料を高くしろ。それが第一手目である」とにかく実力No1の公式発言だから重みが違う。すぐさま実現した。
そこで動いたのが原田大先生。角栄首相に進言した。「教育は中身こそ大切。日本中の学校へ将棋を導入すべきです。角栄先生の今日あるのも将棋がお好きで、それから得た人生観に依るものではと思います」
ツーと言えばカク。すぐさま第二手目は将棋の学校教育への導入であったが、不幸にしてロッキード事件が起きてしまって、この話はボツになってしまった。
7月14日の葬儀には田中真紀子、直紀ご夫妻が列席された。原田先生の日頃のおつき合いの広さはかくの如きであった。
(以下略)
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将棋世界2004年9月号、福本和生さんの「そんな……と絶句」より。
佐藤康光棋聖と森内俊之竜王・名人の棋聖戦第3局が行われた7月7日。控え室で私は将棋連盟の小泉さんに「原田先生はお元気ですか」と聞いた。対局場の高島屋には原田先生の名筆の掛け軸が飾られてある。私の泊まった部屋にも原田先生の名筆が飾られていた。高島屋対局では立会人は原田先生と決まっていた。その原田先生のお元気な声が聞けなかったので、小泉さんに近況をたずねてみた。
「きょう将棋連盟におみえになったそうです。理事会にご出席になってお話をされたそうです」と聞いて、私はお元気になられたとばかり思っていた。それが突然の訃報である。送信されたFAXを見て私は「そんな…!」と絶句してしまった。
原田先生は棋聖戦の生みの親である。
「棋聖戦創設に際し、当時将棋連盟本部の会長であった私は故・水野成夫サンケイ新聞社長と契約調印した。水野さんは明るく大きな声で『原田さん、月に一度は書いて下さいよ』と希望された」と原田先生は著書の「棋聖戦名局集」に書かれている。
原田先生はその水野社長との約束を守られて、棋聖戦観戦記を長年にわたって執筆された。その観戦記から「中原自然流」「内藤自在流」「米長さわやか流」等々のネーミングが誕生した。私は達筆の原稿をいただくたびに、そののびやかな原田先生の文筆に感嘆していた。
(中略)
原田先生にお会いしたのは、昨秋10月の東京・ホテルニューオータニでの「盤寿の会」であった。広い会場は原田先生のファンでぎっしり満員で、羽生善治さんの「原田先生、きょうはたっぷりお話しになってください」のユーモラスなあいさつに壇上の原田先生はうれしそうな笑顔であった。
笑顔の原田先生を拝見したのは、これが最後になってしまった。高島屋での観戦記を書きながら、私はしばらく手をとめて原田先生の追想にふけっていた。涙がとまらなくなった。
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原田泰夫九段が亡くなられたのが2004年7月11日。
もう14年前のことになる。
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2004年になってから原田九段は体調が悪くなり自宅療養が続けられていたが、7月7日、原田九段が突然、将棋連盟に行くと言い出し、奥様が止めても無理だったので、弟子の近藤正和五段(当時)が付き添ってタクシーで阿佐ヶ谷の自宅から千駄ヶ谷まで向かっている。
この日は水曜日で理事会が開かれていた日。
原田九段は死期が迫っているのを感じ、最後の連盟訪問をしたのだと思う。
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原田泰夫九段には将棋ペンクラブ名誉会長を10年以上務めていただいている。
米長邦雄永世棋聖が、原田八段(当時)が田中角栄首相(当時)に「教育は中身こそ大切。日本中の学校へ将棋を導入すべきです。角栄先生の今日あるのも将棋がお好きで、それから得た人生観に依るものではと思います」と説いたと書いているが、後半の「角栄先生の今日あるのも将棋がお好きで、それから得た人生観に依るものではと思います」のようなケレン味のあることは原田九段は言わない人だった。
これは米長流に脚色して書かれているのだと思う。
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2013年10月にホテルニューオータニで行われた「原田泰夫八十一歳祝賀会」での羽生善治竜王・名人(当時)の伝説となっているユーモアに溢れたあいさつ。
「原田先生、きょうはたっぷりお話しになってください」
原田九段の講演は非常に面白く、あらゆるところから依頼を受けていた。
しかし、パーティーのスピーチなどでも、原田九段がいったん話し出すと話題が豊富で、30分を超してしまうことが珍しくなかった。
普通はこのような長いスピーチは歓迎されないものだが、原田九段の話が面白いので、ほとんどのファンは時間を忘れて聞き入っていた。
逆に原田九段のスピーチが短いと、がっかりするファンも多くいたほど。
しかし、全体の進行があるので、会やパーティーのスピーチでは、30分を過ぎた頃に主催者が「原田先生、そろそろお時間が……」と言うこともあった。
「原田先生、きょうはたっぷりお話しになってください」には、このような背景がある。
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