近年、糸谷哲郎八段などにより指されている阪田流向かい飛車。
今日は、その阪田流向かい飛車のルーツについて。
将棋マガジン1990年2月号、東公平さんの「明治大正棋界散策」より。
さて、本題の「阪田流」について、私の結論を先に出しておく。まず、「阪田三吉創案」説はひどい誤りである。話がすっかり江戸時代にさかのぼってしまうけれど、天明年間に活躍した六段・金親盤治が書き残し、没後に発見された薄っぺらな定跡書があった。
この中に、阪田流のルーツと思われる指し方が出ているのだ。
参考棋譜その1である。
参考棋譜その1
『金親駒組集』平手向飛車(天明年間)
▲7六歩△3四歩▲7八金△8四歩▲2二角成△同銀▲7七金△8五歩▲8八飛△3三銀▲6八銀△6二銀▲8六歩(1図)△同歩▲同金△7四歩▲8五金△7三銀▲8四歩△7二金▲7七桂△4二玉▲5八金△3二玉▲5六角△4四角▲8九飛△4二金▲4六歩△5四歩▲4五歩△5五角▲7四金△同銀▲同角(2図)にて先手よし。
盤治は、いろんな刊本に棋譜を残しているけれど、この作戦は見当たらない。
(中略)
記憶によれば木見先生の”阪田流”は2局か3局ある。また、小菅剣之助名誉名人もこの戦法を得意とし、実戦譜が残っているし、△3三角に対し相手が嫌って角交換をせず、▲4八銀と指して別な戦型になった譜も数局ある。明治21年、六段のころである。
というわけで、もし今、改称が許されるとすれば、「金親流」は適切ではないが「小林流」または「小菅流」が適当と思う。しかし、故・建部和歌夫八段も昭和28年の「将棋世界」に書かれておられるが、大正8年の阪田対土居は、棋界注目の争い将棋であって、関根金次郎の次の名人を誰にするかという問題がからんでいたのである。
さらにこの将棋は、中盤で阪田が角の丸損をしながら、猛烈な攻めで奇勝を博したというおまけつきだった。そういう大勝負に現れた手ということで、「阪田流」と名付けたのであれば、このままでいいと思う。
当事者、土居市太郎(故・名誉名人)の感想は次のようになっている。
「△3三角は古人の法なれど先手より角を換わられ△同金にて姿悪しく……」
すこしも驚いていない。阪田流に驚いたのは、関西風の将棋を知らぬ、東京のプロ低段者やアマチュアだけであろう。明治、大正は、将棋に限らず、今の人には想像もつかぬほど情報のすくない時代であった。
(中略)
8図(土居市太郎八段-阪田三吉八段戦途中図)を見るたびに思い出すことがあるので付記したい。
羽生善治の師匠、二上達也九段(会長)の五、六段時代に、阪田流が流行したことがあった。新鋭二上は、8図から▲7五歩と突き、△6四歩に▲7六角と打つ”阪田流破りの新手”を創案して連戦連勝であった。その斬られ役は、当時の一線級、板谷四郎九段や故・京須行男八段(森内俊之の祖父)、故・金高清吉八段あたりだったと記憶している。▲5五歩の狙いがムチャクチャに厳しかった。この二上新手のために、阪田流から△3二金と引く指し方は廃れてしまった。
(以下略)
参考棋譜その2は、『秘巻留』両者十番指第一局、文久2年(1862年)の渡瀬荘次郎四段-小林東四郎四段戦、その3は大正2年(1913年)の矢野逸郎五段-木見金治郎五段戦、その4は大正8年(1919年)の土居市太郎八段-阪田三吉八段戦。
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阪田流向かい飛車というと、1図~2図のような飛車先逆襲が一番イメージ通りだし、こうあってほしいという姿だ。
しかし、阪田流向かい飛車の名の発端となった大正8年(1919年)の土居市太郎八段-阪田三吉八段戦は、阪田八段が3三の金を3二に引いており、飛車先逆襲ではなく、非常に渋い戦いとなっている。
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二上達也九段の”阪田流破りの新手”で、阪田流から△3二金と引く指し方は廃れてしまった。
かといって、飛車先逆襲(棒金)もズバッと決まるわけではない。
升田幸三実力制第四代名人をもってしても、第一弾の攻撃は成功したものの、捌くのに苦心した様子がある。
この対局の相手も二上達也九段。
二上達也九段は、阪田流向かい飛車と不思議な縁がありそうだ。