筋の良い将棋の弱点

将棋マガジン1987年8月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 将棋界は、年々歳々同じことを繰り返している。すなわち、4月に名人戦、6月に順位戦がはじまり、3月に終わる。その間各社のタイトル戦も、行われる季節は同じである。

 王位戦は夏休みの憶い出と重なるし、十段戦の記憶には、いつも歳末のあわただしさがつきまとっている。

 そんなわけで、はじめてから10年目に入るこの対局日誌も、毎年同じようなことを書いている。今年も順位戦がはじまった、の書き出しで、B1組の開幕戦の模様をお伝えする。

(中略)

 このクラスのこの先2、3年は、嵐の前の静けさ、という感じである。今のメンバーは、実力がはっきり判っているが、そのうち、羽生を先頭に、少年組が昇ってきて、なにがなんだか判らなくなるはずだ。「鬼の棲み家」という使い古された言葉も、あと数年の命なのである。

(中略)

 控え室で話題になっていたのは、石田-小林戦で、みんな呆れたり感心したりしている。

 1図は、石田-小林戦だが、小林が▲5九銀と引いた場面。この形は数日前に行われた、中村-小林戦(棋聖戦準決勝)と同じで、小林は二匹目のどじょうを狙ったわけ。

1図からの指し手
△4五歩▲5七角△4四銀▲2五歩△3五歩▲2六飛△7四歩▲8七歩△8四銀▲7七金寄△7五歩▲6七銀(2図)

 このまま駒組戦をつづけていると玉頭の厚みが物を言って、先手が指しやすくなる。それは目に見えているし5九銀と不安定な今が戦いを起こすチャンスである。というわけで、石田は、△4五歩と行動を起こした。

 △4五歩から△4四銀と盛り上がって△3五歩と味をつけ、一転△7四歩とさばきにかかる。こういった場面は、石田のもっとも得意とするところで、ほれぼれする。

 ▲7四同歩と取っては、△同銀▲7五歩△8五銀と出られて先手不利。そう読んだ小林は、戦いをさけようと、▲8七歩と打った。以下、△7五歩▲同銀△7四歩▲8六銀で、ちょっと率がわるいが、やむを得ないと思ったのだろう。

 とたんに△8四銀と出られて小林は参った。▲7四歩では、△7五歩で銀が死んでしまう。泣きながら、▲7七金寄だが、△7五歩▲6七銀と一歩取られて、へこまされてしまった。

 みんなが感心したのは、この屈辱に耐える小林の根性である。多くの棋士は、そんな我慢はできぬ、とばかり、▲6五歩とかなんとかもがいて、早く負かされてしまう。小林はそうではない。どんな形になろうと、早く負けるのはいやだ、というのである。それにしても、2図はひどい形だ。

2図からの指し手
△3六歩▲同飛△4三金右▲8八玉△3五歩▲1六飛△3四金▲5八銀直△3一玉▲5五歩△同歩▲4六歩△同歩▲4五歩△3三銀▲4六角(3図)

 このときの石田の気持ちを推理するとおもしろい。絶対優勢、と思ったのはもちろんだが、だから、ここで必勝形を作らなければならない、その手順があるはずだ、と思いつめた。将棋はいい手を指して勝つものだ、という理想主義者なのである。

 で、はっきりよくなる順を探したが、それがみつからない。そんなはずはない、と考えているうちに、必勝にしなければ、の強迫観念にとりつかれてしまった。時間はどんどんなくなり、気の進まぬままに、△4三金右から△3四金と駒組を作ったが、これではよくならない。

 ▲5五歩から▲4六歩が巧妙で、▲4六角とさばいた3図は、どちらかといえば先手を持ちたい局面になった。

 局後石田はボヤいたのである。

「なんにも考えずに、△8五銀と出ておけばよかったんだ。もっとよくしようと欲張ったものだから」

 たしかにそうだ。でも、2図で考えずに、このくらいでいいだろうと、△8五銀と出る人は、2図の局面を作れないのである。そこに人生の皮肉がある。

 小林は、石田の長所も短所も知り尽くしている。石田が焦るであろうことを計算に入れて、2図の屈服に甘んじたのである。

(以下略)

* * * * *

「絶対優勢、と思ったのはもちろんだが、だから、ここで必勝形を作らなければならない、その手順があるはずだ、と思いつめた。将棋はいい手を指して勝つものだ、という理想主義者なのである」

古今、「筋の良い将棋」といえば、芹沢博文九段、石田和雄九段、阿部隆八段の三人の名が挙がる。

その石田和雄八段(当時)の見事な指し回し。

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「△8五銀と出る人は、2図の局面を作れないのである。そこに人生の皮肉がある」

古畑任三郎が犯人を論理的に言葉で追い詰めていって、「あなたが犯人です」と言った瞬間、テレビドラマなら「古畑さん、僕の負けだ」と犯人が肩を落とすわけだが、相手がドラマとは違ってかなりの武闘派凶悪犯で、隠し持っていた日本刀で斬りかかってきたとしたら……

体力派の刑事なら対抗することができるだろうが、古畑任三郎ではきっと大怪我をしてしまうことだろう。

しかし、体力派の刑事なら、こんなに早く犯人を見つけ出すことができないし、見つけたとしても1対1ではなく全く違ったシチュエーション(複数の刑事で犯人のアジトに踏み込む)だろうから、そもそもこのような状況にはならない。

そういうことなのだと思う。