近代将棋1984年4月号、「名棋士インタビュー 大山康晴十五世名人の巻 まだまだ若い者には・・・」より。インタビュアーは谷川俊昭さん。
―早速ですが、先頃”勝負五十年”という本を出されましたね。私も読ませていただきましたが、名人ご自身でも、よく続けてこられたなあと、感慨深いことでしょうね。
「昭和10年の3月14日に木見先生の門を叩いてから、正確には49年間、自分でもよくやってきたと思います。ただ、あまり知られていないけど誇りにしているのは、今まで一局も不戦敗がないことで、これは他に、花村さん、佐瀬さんぐらい。まあ、これは時には風邪をひいたりして苦しくても、自分の立場上休めないという意地っ張りの気持ちがあったからでしょうね」
(中略)
―名人は内弟子生活は随分と長かったようですね。
「12歳から21歳ぐらいまでだから9年と3ヵ月、まあ、これも戦争があったからで、戦争がなければ、八段まで内弟子でいたでしょうね(笑)。まあ、私も名人になって、ここまで頑張ってこれたのは、この頃の内弟子の経験が一番役に立っていると思いますね。あの頃は、今と違って、田舎から出てくる時は丁稚奉公という感じで、一人前になっても、しばらくはその家のために御恩返しをする。のれんを分けてもらうのはずっと先というような感じですよ。まあ、世の中全体がそんな考え方だったから、内弟子生活はそれが当たり前といった感じで、辛くはなかったですね。まあ年が経つと家族のような親しみも出てきますし」
―若い頃の9年3ヵ月だけに、名人のその後の土台になったと思いますが、棋風はその頃どんな感じでしたか。
「これはね、私が15歳位で中将棋と出会ったんです。あの、盤面が大きくて、駒がたくさんある将棋ですね。当時は指す人が結構いて、私もかなり強くなったんだけど、中将棋は派手な動きがなく、駒の関連を考えながら、少しずつ盛り上がっていく。これが、今の私の棋風にある程度影響しているようです。まあ、強くなるためには、このようなものを一通りやるべきじゃないかと思いますね」
(中略)
「昭和21年末には名人戦も復活し、金先生の家を事務所にして、麻布のお寺に寝泊まりして、対局したもんです。まあ、寝るといっても、布団がないから、寝る訳にいかない。だから、麻雀台があれば宿代が4人分浮くんじゃないかということで麻雀台を置いたりしました。それでも寝たい時は、横に将棋盤を置いて、風がこないようにし、上に額をおろして、新聞を体に巻いたりしたものです。今では考えられないけど、そんなにまでしても、将棋が指したかったんですね」
(中略)
―世間では升田さんのことを”宿命のライバル”とか言っていたようですが……
「新聞などでは、”高野山の決戦”とか、二人をライバル扱いしたけど、本人は別にライバルなどとは思ってなかったですね。当時は、関西は東京と較べて経済的に苦しかったこともあって、”打倒東京”という気持ちが強かった。木村さんは雲の上の存在で”打倒木村”という気運はあまりなかったね。まあ、升田さんとは167番指しましたが、やっぱり指してて一番面白い相手でしたね。これは闘志が湧くとかいうんじゃなく、純粋に技術的に接近してるからなのね。その意味で怖さがあるというか、張り合いのある相手でした。”ライバル”と言ってしまうと、どうしても感情的なものが入ってくるけど、将棋が終わったら先輩として立てていたし、言い争ったりすることは殆どなかったですね。勿論感想戦は別で、技術のことだからお互い譲らなかったですが」
―167番指して、結局名人の方が少し勝ち越された訳ですが、これはやっぱり棋風によるものでしょうか。
「これはね、升田さんが私の兄弟子だったのが辛かった。兄貴というものは、弟に負けると素直に負けたと言えないでしょ。どうしても何か理由をつけたがる。その点、弟は負けても”ああ、うちの兄貴は強いや”と言ってればいいから気楽ですよ。升田さんはいろんな意味で負担がありました。まあ、これも兄弟弟子だったからで、門下が違ってたらもっと激しい競り合いがあったかもしれませんよ」
(中略)
―名人は会館作りに際しては大変なご苦労をされたと聞いておりますが、能智映さんが”コートを着ない名人”ということを書いておられましたね。
「あれは、コートを着てると動きがにぶいでしょ。それから会社にお願いに行けば、コートを脱いで受付に預けたりすると、その度に2分位ロスが出る。それで1日10社位訪問すると20分になって、それならもう1社行けるじゃないか。大体会社を回れるのは、11時から4時頃までで、昼休みがあるから実際には4時間位しかない。4時間のうち20分は大きいじゃないかと思った訳です」
(中略)
―こうして名人のお話をうかがってますと、普段はスケジュールの空き時間を見つけては仕事をされているのに対し、将棋は”忍の一字”といった感じで、一体本当の名人はどちらかなという気がしますが。
「これはね、自分でもよくわからないです。ただ、性格的にはせっかちで慌て者ですね。ただ、将棋はそれだけでは勝ちきれないから、人に真似のできない強さを身につけようと思いました。我慢するのは真似しにくいでしょ。昔の大山流はだからかなり意識して作られたものですね。まあ、最近忙しくなってからは、そんなに辛抱もできなくなりましたね(笑)」
(以下略)
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「戦争がなければ、八段まで内弟子でいたでしょうね」
木見金治郎九段門下だけのことなのか、関西での通例だったのか、あるいは戦前は全国的にこうだったのか、はわからないが、四段になって一人前になってからも八段になるまでは師匠の家に住んで、対局料の一部を師匠に納めていたということ。
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「布団がないから、寝る訳にいかない。だから、麻雀台があれば宿代が4人分浮くんじゃないかということで麻雀台を置いたりしました」
将棋界で麻雀が盛んだったのは、この辺が基礎になっているのかもしれない。
勝負が終わった後の高揚感を鎮めるためにも宿代を節約するためにも、麻雀は有効だったと言えるだろう。
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「これはね、升田さんが私の兄弟子だったのが辛かった。兄貴というものは、弟に負けると素直に負けたと言えないでしょ。どうしても何か理由をつけたがる。その点、弟は負けても”ああ、うちの兄貴は強いや”と言ってればいいから気楽ですよ」
兄弟で将棋をはじめると、弟の方が強くなるケースが多いと聞いたことがある。
兄と弟の関係なので一概に兄弟弟子には適用できないかもしれないが、このような背景があるということがわかる。
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「あれは、コートを着てると動きがにぶいでしょ。それから会社にお願いに行けば、コートを脱いで受付に預けたりすると、その度に2分位ロスが出る。それで1日10社位訪問すると20分になって、それならもう1社行けるじゃないか。大体会社を回れるのは、11時から4時頃までで、昼休みがあるから実際には4時間位しかない。4時間のうち20分は大きいじゃないかと思った訳です」
これは、すごい。
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「我慢するのは真似しにくいでしょ。昔の大山流はだからかなり意識して作られたものですね」
大山流の真髄。これもすごい。