「君ねえ、きょうは将棋で負けたんじゃないよ。暑くて体力で負けたんだよ」

将棋世界2004年4月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 広津久雄九段」より。聞き書きは木屋太二さん。

 昭和26年頃だったと思うが、静岡新聞社の人が将棋連盟をたずねてきて、「将棋の連載を始めたいが誰か書ける人はいませんか」と言う。当時私は九州に住んでいて東京へ行った時、たまたまその席に居合わせた。「いっぺん、君が書いてみたらどうだ」ということになり、1週間ほど静岡に行った。

 新聞にはプロの棋譜と地元のアマの棋譜を交互に使った。木村名人からも、「君、どうせやるなら静岡に住んで手伝ってやったらどうだ」とすすめられ、その気になった。この仕事はいまも続いている。東京に遊びに来て静岡に行ったら、そのまま帰れなくなったという訳です(笑)。

 木村名人といえば、こういう思い出もある。夏に四ツ谷の旅館で対局をした。その日は特に暑かった。木村名人に、「クーラーをつけてもらいましょうか」と言うと、「わしはそんなのいらん」と言う。木村名人は洋服で、ネクタイを外さず対局を続けた。私は羽織を脱いで長襦袢一枚になった。この将棋は私が勝ちました。

 木村名人は投了したあと、「君ねえ、きょうは将棋で負けたんじゃないよ。暑くて体力で負けたんだよ」とおっしゃる。大変プライドの高い方でしたね。

(以下略)

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この四ツ谷での対局は、三社杯B級選抜トーナメント(三社・夕刊)優勝記念の対局で、1958年7月25日に四ツ谷「高田」で行われている。

広津久雄九段が七段時代、木村義雄十四世名人は引退してから6年経っている。

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木村義雄十四世名人がクーラーをつけてもらわなかったのは、まさしく江戸っ子ならではのやせ我慢、投了後の「君ねえ、きょうは将棋で負けたんじゃないよ。暑くて体力で負けたんだよ」は、引退したとはいえ全く衰えぬ木村十四世名人らしい負けん気。

この木村十四世名人らしさがたまらなくいい。

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クーラーのない時代は、大きな氷柱を双方に置いて対局をすることもあったようだ。

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「福岡の黒ダイヤ」と呼ばれていた広津久雄七段(当時)が、ふとしかきっかけで静岡に移り住むようになる。

その結果、静岡県の将棋界は大きく発展して、また青野照市九段、菊地常夫七段、鈴木輝彦 八段、神谷広志八段、中尾敏之五段の静岡県出身の弟子を輩出することになる。

木村十四世名人の「君、どうせやるなら静岡に住んで手伝ってやったらどうだ」という言葉が歴史を動かしたと言ってもよいだろう。

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ちなみに「福岡の黒ダイヤ」の黒ダイヤとは石炭のこと。

「石油王と知り合いになりたい」のような冗談があるが、石炭が重要な燃料として使われていた時代は、石炭王が現在の石油王の位置付けで、石炭が莫大な利益をあげていた。

そういうわけで、石炭が黒ダイヤ。

ツノ銀中飛車の元祖、松田茂役九段は「鳥取のダイヤモンド」と呼ばれており、広津九段は「向こうは本物のダイヤモンドなのに、こっちは石炭だ」と笑っていたという。