升田幸三七段(当時)「阪田さんの追善会で、銀を泣かせるわけにはいかん、と思うた」

将棋マガジン1990年10月号、東公平さんの「明治大正棋界散策 銀が泣いている」より。

「わてが死んだら、きっと誰かが、芝居や活動写真にしよりまっせ」と生前の阪田三吉関西名人は、よく人に語っていたそうである。

 みごとな予言だった。私は、尊敬と同情の深い思いをこめて、以下三吉と書く。

 没年月日は昭和21年7月23日で、私の13歳の誕生日だから憶えやすい。満76歳だった。同じ年の3月12日には”宿敵”関根金次郎十三世名人が、満77歳で没しており、「後を追うように」三吉もこの世を去ったのだった。

 没後ほとんど年月をおかず大阪出身の北條秀司氏が、新国劇のシナリオ「王将」を書き、辰巳柳太郎、島田正吾の好演と相まって大評判をとり、次に東宝で映画化され、今や不朽の名作とまで言われているわけだが、遺族から「お父ちゃんはあんな人やない。アホの三やんとはなんだ。映画化は許さない」と訴訟沙汰にまでなったことがある。

 東宝側が「これは伝記ではなくフィクションである」と逃げを打てば、遺族側は「そんなら、阪田も関根も、玉枝(本名はタマエ)も、すべて仮の名に変えてもらいます」と反論した。どう折り合いがついたものか詳しくは知らないけれど、「女房の小春」は役名であって、本名はコユウ。北条氏が名前を知らなかったのではなく、舞台で三吉が大声で叫ぶときに「コユウ」では響きが悪いため、音の効果を考えて明快な「コハル」にしたのだと聞いている。

(中略)

 吉屋信子の随筆「私の見た人」は、朝日新聞に連載され、同社発行の文庫本にもなっているが、徳富蘇峰、小林一三、新渡戸稲造、モルガンお雪、横綱玉錦、古今亭志ん生など、40数人の有名人に混じって坂田三吉も出て来る。

 昭和12年といえば、三吉が無冠の棋士として南禅寺、天竜寺の対局に臨んだ年であるが、吉屋信子女史は講演のため菊池寛、吉川英治、佐藤春夫、小島政二郎といった作家たちと共に大阪の新大阪ホテルに泊まった。

 フロントから「来客」の連絡を受けた吉屋がロビーへ行くと、<羽織に着流しの小柄な><どう見てもどこかの店の番頭さんかとみえる>人が訪問者で、まったく覚えがない。

 <そのひとは幾度も腰低く頭をさげて、まったく小商人じみていた。>そして用件は、菊池寛への伝言なのである。

 <そうした言葉より多く頭をさげつづけるので私は困ってしまった。椅子をすすめても客は辞退して立ったままだった。>

 そしてまた何か言い続けるのだが、よく聞き取れない。吉屋女史はじれったくなり、どなたでございましょう、と問うた。

<「ハイ、てまえはサカタサンキチでございます」。この名乗りの時だけは、日本中でだれでも知っている名を告げるようにはっきりとした。>

 そうしてまた腰をかがめ、三吉は帰った。後刻それを菊池寛に話すと、「待たしておけばよかったのに。そりゃあおもしろい人物だよ」と残念がって説明してくれたというのである。

 <私は生涯の不覚を悔いた。>そして戦後、映画で「王将」を見た吉屋信子は、<「イツゾヤハゴメンナサイ」と故人にわびつつスクリーンを見詰めて涙が流れて―流れて仕方がなかった。>と結んでいる。

 三吉のお辞儀の長かったのは有名で、ていねいな人と比べても、3倍も5倍も頭を下げ続けていたという。帰る相手が車の場合でも、ずっと頭を下げ続け、見えなくなるまで最敬礼であった。また、一度でも世話になった人は「恩人」と称して忘れることがなかった。

(中略)

「銀が泣いている」。阪田三吉のエピソードの中で最もよく知られている言葉だが、書く人によっていろいろと脚色されている。しかしよく考えれば、三吉はこういう言い回しが天才的に上手だったし、二度も三度も「銀が泣いとるよってに、この将棋はあかん」などと言ったかもしれない。

 私の調べでは、参考棋譜の対関根戦が名言の出所だと信じる。異説に、対井上義雄八段戦の歩越し銀だという話もある。

 この対局が珍しいのは、「香車次第」と呼ぶ手合割だ。すなわち「一番手直り」というケンカ腰の勝負であって、まず関根八段が左香を落とすが、上手の勝ちなら第2局は角落ちで、下手の勝ちなら平手(先)。それにも阪田が勝ちなら3局目は関根が先手、さらに阪田が勝てば、逆に左香落ちという約束だった。

 もっとも、八段が香を引かれて指すはずはないから、もしそうなれば”有力者”が口を利いて、中止または延期にしただろう。

 この時、「阪田三吉は、もし負けたら生きては大阪へ帰らぬ覚悟だそうな」という噂が流れていたという。関根は46歳、阪田は44歳。拙著『阪田三吉血戦譜』第2部の64ページに、「両師ともに最も充実していた時期」と書いたが、ここで訂正だせていただく。関根八段は40歳のころに軽い脳溢血で倒れたことがあって、以後、少し棋力も下り坂になっていたようで、いわゆる無理のきかない体になっていた。しかし、「さらりと指す」左香落ちは絶品で、すばらしい出来栄えと思われるのである。

 この異例の「一番手直り」の決戦は、阪田の七段昇進が東京方に無断であったことが根にあり、関根が、過去の戦績から「香香角である」と突っ張ったことにより発生した。

 会の名称は「阪田七段歓迎会」となっているが、これは阪田を支持する東京の小野五平名人(83)と、小野の後援者である芳川顕正伯爵(同じ徳島県出身)ら政界財界の有力者が主催したからで、関根と阪田にとっては、命運を賭した”決闘”であった。小野名人が高齢のため、次期名人問題がからんでいたのだ。観客は上流階級を中心に120余名。自分たちも指しながら関根-阪田戦を見る趣向である。

 三吉が不馴れな「七間飛車」を採用したのは「平手でも負けぬ」自信の表明であった。

 棋譜を追っていただきたい。

 次に記すのは昭和4年に「大阪朝日新聞」に口述筆記で連載した『将棋哲学』の一節。

「その時自分は▲8五銀という手を指した。その銀は進退きわまって出た銀だった。出るに出られず引くに引かれず斬死の覚悟で捨て身に出た銀であった。ただの銀じゃない。それは阪田が銀になって、うつ向いて泣いてる銀だ。それは駒と違う。阪田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に阪田の魂がぶち込まれているのだ。その駒が泣いている。涙を流している。(中略)この一番を負けたら、何年かの苦心が泡と消える。スゴスゴと旗を巻いて退却しなければならぬ。何でも勝ちたいと思ってあせった末、そういう手が出たのだった。根が強情なものだからやはりそういう強情な手が出る。その時関根さんの方でその銀を大事にして、敵方にニュッと出た銀ではあるけれど、折角出て来た銀である、今殺さなくとも、しばらく滞留させてあげよう、まあゆっくりなさい、といった態度に出られたらとても勝てる将棋ではなかった」

 阪田三吉の泣き銀。私が説明する必要はなさそうである。談話と銀の動きは、ぴたりと合っていると思う。

(中略)

 昭和22年5月18日。大阪市の四天王寺本坊で「阪田三吉追善会」が開かれ、東京から木村義雄、土居市太郎、金易二郎、花田長太郎、加藤治郎が出席し、大阪方の升田幸三、木見金治郎、村上真一、大山康晴、大野源一と、席上対局を行った。

 最も注目を集めたのは、木村名人と升田七段の対戦だったが、1図で升田は、銀を引かず、▲2四銀と敵歩頭へ進めたのである。「阪田さんの追善会で、銀を泣かせるわけにはいかん、と思うた」の感想がある。出席者700余名を前に升田は、手向けの花を投げた。

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参考棋譜

大正2年4月6日 於東京・築地倶楽部
「阪田七段歓迎会席上」
香車次第
△八段 関根金次郎
▲七段 阪田三吉

△3四歩▲7六歩△4四歩▲5六歩△3二飛▲6八銀△4二銀▲5七銀△6二玉▲7五歩△7二銀▲7八飛(平手なら三間飛車だが、左香落ちに限っては七間飛車と呼ばれる)△4三銀▲7四歩△同歩▲同飛△5二金左▲7六飛△7三歩▲4八玉△7一玉▲3八銀(▲3八玉から▲4八金直の形も古くから知られていた。穴熊はこの時代、損な形と軽視され用いられなかった)△6四歩▲3九玉△3五歩▲9六歩△9四歩▲5八金左△8二玉▲6六銀△4五歩▲7七桂△3六歩▲同歩△同飛▲7五銀△5四銀▲3七歩△3四飛(2図)

▲9七角△6三銀引▲2八玉△6五歩▲8六銀(3図)

▲8六銀(3図)は先逃げだが、ここから三吉の苦闘が始まる。以下、この銀が何度動いたか……。

△7四歩▲5七金△1四歩▲5五歩△1三角▲7九角△3三桂▲6八角△8四歩▲6六歩△8五歩▲同銀(4図)

▲8五同銀(4図)。「進退きわまって出た」銀。

△7三桂▲9四銀△6六歩▲8六飛△8三歩▲6六飛△9三歩(5図)

△9三歩(5図)では、「まあゆっくりなさい」と△8四歩と突き、△7五歩を狙えば上手十分だった。

▲9五歩△7五歩▲8五銀△8四歩▲9六銀(6図)

▲9六銀(6図)。生還はしたが、ひどい悪型。

△7四飛▲7八歩△6四飛▲6五歩△7四飛▲9四歩△同歩▲9五歩△7六歩▲9四歩△9二歩▲9五銀△7七歩成▲同歩△8三桂▲8六銀△8五歩▲9七銀(7図)

▲9七銀(7図)。「うつむいて泣いている」銀。

△9四飛▲5八金引△6八角成▲同金△7四飛▲8六歩△4六歩▲同歩△6四歩▲8五歩△6五桂▲8六銀(8図)

▲8六銀(8図)。ようやく戦線に復帰した銀。

△7一玉▲4八角(9図)

▲4八角(9図)。うまい勝負手。指しかけの夜、夢の中で発見したと三吉の話にある。

△7九角▲6九歩△8八角成▲9二香成△同香▲9三歩△同香▲6七飛△7五歩▲7六歩△9八香成▲9五歩△4七歩▲同飛△6六香▲7五歩△7三飛▲7七金(10図)

▲7七金(10図)。観戦者は驚いた。厳密には最善手でないが、関根の意表に出、楽観を誘う。

△同桂成▲同銀△5六金▲8八銀(11図)以下略、164手までで阪田七段の勝ち。

  

▲8八銀(11図)。この銀は15回動いてようやく使命を果たし、逆転勝ちに結びつく。「命がけ」の気迫が伝わって来る、長い辛抱だった。

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阪田三吉「銀が泣いている」のすべて。

阪田七段歓迎会席上の関根金次郎八段-阪田三吉七段戦、阪田三吉の思いが非常に色濃く感じられる一局。

最後に銀は成仏できているが、そこに至るまでの過程が苦難の連続だった。

▲4八角(9図)などは阪田三吉でなければ指せない手だと思う。

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「三吉が不馴れな「七間飛車」を採用したのは「平手でも負けぬ」自信の表明であった」

これは、七間飛車(結果的に相振り飛車になる)が、上手の左香がないという弱点を攻めない指し方ということ。

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升田幸三七段(当時)の▲2四銀と敵歩頭へ進めた一手。「阪田さんの追善会で、銀を泣かせるわけにはいかん、と思うた」が、とても心を打つ。

今日の記事タイトルが「銀が泣いている」ではなく、升田実力制第四代名人の言葉なのも、この言葉を紹介したかったから。

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新大阪ホテルは開業が昭和10年。中之島3丁目にあったという。ベネチアンゴシック式鉄筋コンクリート造の8階建。

現在は建物がなくなっているが、資本的にはリーガロイヤルホテルグループということになる。

大正2年の「阪田七段歓迎会」が行われた東京・築地倶楽部は、築地のどの辺にあったものなのか、記録などが全く見つからない。

会員制の倶楽部であったことは間違いなさそうだ。

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関根金次郎十三世名人のほぼ4ヶ月後に亡くなった阪田三吉贈名人・王将。

宿命のライバル、おしどり夫婦(元を含む)、親友は、比較的近い時期に亡くなるケースが多い。(敬称略、括弧内は没年月日)

  • 大山康晴十五世名人(1992年7月26日)、升田幸三実力制第四代名人(1991年4月5日)
  • 芹沢博文九段(1987年12月9日)、板谷進九段(1988年2月24日)
  • 岸田今日子(2006年12月17日)、仲谷昇(2006年11月16日)
  • 樹木希林(2018年9月15日)、内田裕也(2019年3月17日)
  • 津川雅彦( 2018年8月4日)、朝丘雪路(2018年4月27日)

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新国劇『王将』の阪田三吉…辰巳柳太郎、関根名人…島田正吾は、例えは非常に不適切かもしれないが、『吸血鬼ドラキュラ』の映画における、ドラキュラ伯爵…クリストファー・リー、ヴァン・ヘルシング教授…ピーター・カッシングと同様の鉄板の布陣。

映画『王将』も素晴らしいキャスティングとなっている。

  • 『王将』(1948年、大映)阪田三吉…阪東妻三郎、関根名人…滝沢修、小春…水戸光子、玉枝…三條美紀
  • 『王将一代』(1955年、新東宝)阪田三吉…辰巳柳太郎、入江名人…島田正吾、小春…田中絹代、玉枝…木暮実千代、君子(次女)…香川京子
  • 『王将』(1962年、東映)阪田三吉…三國連太郎、関根名人…平幹二朗、小春…淡島千景、玉枝…三田佳子
  • 『続・王将』(1963年、東映)阪田三吉…三國連太郎、関村名人…中村伸郎、玉枝…丹阿弥谷津子、君子…三田佳子
  • 『王将』(1973年、東宝)阪田三吉…勝新太郎、関根名人…仲代達矢、小春…中村玉緒、玉枝…音無美紀子

1962年、東映の『王将』では、阪田三吉の弟子役で千葉真一さんが出演している。全方位で強そうだ。

「升田幸三七段(当時)「阪田さんの追善会で、銀を泣かせるわけにはいかん、と思うた」」への1件のフィードバック

  1. 「▲4八角」の局面は、将棋世界の「イメージと読みの将棋観」でも取り上げられていましたね。
    渡辺二冠は同様の筋で「▲3九角」を示していました。
    (角頭に歩を打たれない分、勝るのではとの見解でした。)

    升田先生の「阪田さんの追善会で、銀を泣かせるわけにはいかん、と思うた」には心を打たれますね。

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