将棋マガジン1990年2月号、奥山紅樹さんの「棋界人物捕物帖 森信雄五段の巻」より。
森信雄プロといえば。もう一つ聞きたいことがある。それは愛弟子・村山聖五段への面倒見の良さである。聞くところによると、病気がちの村山プロをかばい、入院したときパンツを洗ってやったこともあるとか。
「いやいや、そんなこと……」
銭湯へつれていって、頭を洗ってやる?
「それはありません」
でも、目撃者がいますよ。食事をつくってやるとか。
「村山君、身体が弱かったんでね。同僚というか、棋士仲間という感覚で、気ィ遣うたということはありますけど……師匠とか、そういうことやない」
「面倒見やとか、献身的やとか、そんなこと書かれると、ゾクッとするほど気持ちが悪い。かれは身体が弱いのに、性格はきついところがあるから……ヤケクソになられたらあかん、元も子も無しにしてしまう。それで仲間として気ィ遣うた……それだけのことです」
10代半ばのころ、村山少年は今よりずっと病弱であった。奨励会の対局にもドクターストップが掛かるほどの。
「つぎの対局休みィ」「いや、ぼくは将棋指します」「そんなんしたら、身体参ってしまうで」「参ってもええです」「アホなこというたらあかん」「いえ、将棋指せればイノチなんかどうなってもええです」「止めんか、いうのに」「いえ、止めません」
森師匠と村山弟子のあいだに、大要このようなやりとりが続き、「休め」「休めません」の激論がしばしばのことであった。
それが近年「散髪に行ってこい」「いやです」「頭が臭いてな、つまらんことで人に嫌われるのはアホらしいやないか。髪の毛、切ってこい」「いやです」の激論へとエスカレートする。
「ぼくもガンコやけど、村山君もガンコ者やから……それで、かれが20歳になってからは本人の自己管理にまかせています」
こう言いながらも、森プロは弟子の生活管理のありようと、その才能開花を、しんそこから気にかけているようだった。
終盤に入って異常な冴えを見せる村山将棋の魅力。それはまた、師匠の忠告をハネつける頑固さ、主体性の強さと結び着いている。
「けど、社会を見る目。人間を見る目。村山君の方がぼくよりずっと、しっかりしている。リアルに物を見てます。教えられます」
「この夏、北海道へ(村山五段が)一人旅をして、帰って来てから人間が明るくなった。たくましくなった。人を頼る時には、だれでも謙虚になりますからね、頭を下げて『下』から物を言う経験を積めば、自分のガンコさの中にある甘えが分かってきますから。そのことに気付けば、人間はたくましく、明るくなりますよ。かれを見て、そう思います」
(以下略)
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「村山君、身体が弱かったんでね。同僚というか、棋士仲間という感覚で、気ィ遣うたということはありますけど……師匠とか、そういうことやない」
森信雄五段(当時)の無上の優しさ。
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昨年、森信雄七段のご自宅に遊びに行った時のこと。
ヨウムの金太郎と戯れている最中の森信雄七段が、ふと独り言のように、
「千田君、ちゃんとご飯食べてるやろか。心配やなー」
と奥様に語りかけた。
千田翔太七段が大阪から東京へ引っ越して間もなかった頃で、千田六段(当時)が将棋の研究に夢中になり過ぎて食事をきちんととっていないのではという心配。
この時、あらためて森信雄七段の優しさに感動するとともに、『聖の青春』の物語の中にいるような感じがしたものだった。