「棋士の妻になってよかったと思っております」

将棋世界1989年4月号、炬口勝弘さんの「棋士の女房・お袋さん 原田栄子さん(原田泰夫九段夫人)」より。

将棋世界同じ号、昭和23年の結婚式の記念写真。
お嬢さん育ち

「司令官の娘というのは、忠君愛国という思想のせいか、率直に言って色香が漂わない。結婚は同情結婚。お互いに同情、人命救助の結婚でした。だけれども、家庭とか子供、内弟子のことでは、私はひとつも心配したことがない。そこのところはテキを大いに褒めてやりたい。感謝また感謝です。女はなんといっても掃除、洗濯、キンピラゴボウですから」

 夫・原田泰夫九段の夫人評である。例にによって愉快で元気な原川節だが、「人命教助の結婚」って一体なに? 

 栄子大人に昭和二年、東京の中野に生まれた。父親は職業軍人だった。祖父もそうだったから代々軍人の家系だ。

 幼稚園から小学校二年生までを父の赴任先・北例道の旭川で過した。三年からまた東京に戻ったが、女学校は「朝鮮」の「京城第二高等女学校」だった。終戦は、疎開していたり母親の実家・静岡市で迎えた。そして結婚までそこで過ごした。

 姉、弟、妹がいる四人兄弟の次女。父親の友人・知人には役人が多く、サラリーマンという職業があることすら知らなかったというお嬢さん育ちであった。朝鮮時代には女中さんが二人もいて、お勝手には入ったこともない。

 だから、女学校の料理の授業で、キュウリを切らなければいけないとなったときには、女中さんがお使いに行っていないスキをみて、台所で刻む練習をした。

平凡はいや

 姉は父親の勧めでお堅い役人に嫁いだ。妹の栄子さんにもそういう候補者が上がったが、本人は変わったところ、変わった職業の人がいいと思い、親にもそう公言していた。

「お寺さんでもいい。きれいな座敷で、きちんと和服を着ている大黒さんの姿にあこがれたりして……。平凡を好まない性格でした」

「確かな人間だから。家も旧家でしっかりしている」

 ただそれだけで見合いをした。昭和二十二年だった。本人は行かなかった。両親と祖父と父とオバが箱根まで出かけ、原田七段をよく見、「大丈夫だ」と決めてしまった。栄子さんも訳も分らず承知した。

 結婚式は翌二十三年の十月。東京の明治記念館でだった。新郎二十五歳、新婦二十一歳だった。

 新婚旅行は、仲人の漫談家・西村楽天師匠の顔で箱根の玉泉荘へ。タイトル戦で知られる天成園のずっと奥、川添の細い山道を登ったところの宿だったが、まだ戦後間もない食糧難の時代のこと、米三合持参で出かけた。

千客万来 木賃宿?

 新婚生活は鎌倉の十畳・三畳二間の間借りからスタートした。しかし甘い蜜月はなかった。三ヶ月後に、主人がA級八段に昇段した時、新潟出身の佐藤庄平八段が内弟子に入った。

 翌年の二十四年に東京の西荻窪に移った。夫人の父の知人の家で、転任の間の留守居役だったが、敷地二百坪、建坪七十数坪の大邸宅。しかしここでものんびりとしていられなかった。当時、連盟も、後楽園スタジアムの一室に事務所を間借りしていた状態だったから、戦後初めての奨励会(十人ほど)が、原田宅でスタートしたのであった。

「芹沢(博文)少年が、入会試験に現われたことも今では懐しい思い出です」

 その後、中野に連盟本部ができると奨励会の例会もそちらに移った。

 しかし、千客万来、原田邸は相変らず木賃宿。

 二年後、留守居役が終わると港区小山町に移った。師匠の加藤治郎九段の実家の家作だった。

 四畳半、三畳二間、八畳の居間のある十五坪の家だったが、そこに内弟子四人、家族四人、他に居候も時々あってテンヤワンヤ。内弟子は三畳間に二人づつ。八畳の部屋は通り道のようで、家族四人は四畳半一間に寝起きしていた。

「子供が夜泣きすると、くるんで、オブって表へ出ました。来客も絶えず、ぼんとに木賃宿みたいでした」

 二十五年に長女、二十七年に長男が生まれたが、長男出産のときなどは、六日後に退院すると、なんと自宅に荷物と一緒に見知らぬ少年(桜井昇現七段)が着いていたのだった。

「主人たら何考えてるんでしょうね。家内がその日に戻るから、その日に来ればいいだろう、なんです。私は何も聞いてなかったんですよ。それにもうその日からお客さん呼びまして、産後も何もなかったです。そうね、赤ん坊背負って静岡の実家へ帰ろうと思ったことは三回ぐらいありました。何が、不満ということじゃなくて、ただ大変だから……。でも今日は帰ろうと思うと弟が、三田の慶応大学に通ってたんですが、必ず現われて。いつでもそうでとうとう…….」

 地方から棋士志望の家出少年が早朝に訪ねて来たことも何度かあった。

 大学将棋で上京してきた学生を、十五人も泊めたこともあった。湯のみ茶わんでご飯を食べさせ、座布団を布団がわりにした。

 桜井少年(十歳で内弟子入り)の授業参観日には、長女の手をひき、長男をオンブして出かけた。

 しかしそんな中で、いやむしろそうした環境のせいで、二人の子は、長女はお茶の水、長男は一橋大を卒業し、それぞれが立派な社会人となって独立している。

 皮肉なもので、狭い時に人が多く、今豪邸(敷地九十坪、二階建・六十四坪)に住めるようになったら、夫婦二人だけだ。

 静かな、家族だけの生活になったのは夫人が四十路に入ってからだった。

「やっとお鍋も小っちゃいの買いまして」

棋士の妻になって

 インタヴューの後、夫人からは、妻として母としての真情あふるる便りをいただいた。

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 主人が自分の対局は二の次三の次で恵まれない将棋界の基礎作りに腐心した時代。将棋界を論じる人たちがよく集より、夜通しお酒を飲み声高にやかましい中で、子供は耳に栓をして勉強していました。

 今よりずっと狭い家で、試験中であろうと頓着なく酒盛りがあって、私が主人に抗議することが多かったのですが、主人は「親の仕事のお陰で生活できる。子供に遠慮など毛頭考えない」という主義を通しました。

 言葉通り、主人は机に向っており、連盟を思う真摯さは子供たちにも通じていて、主人は今も遊びなどしない性格ですが、昔はもっと姿勢を崩さない行儀のよい暮し方でしたから、子供たちも父親の背中を見て育ち、ですから子供から文句の出ることは一度もありませんでした。

 ふりかえれば、私の結婚は、戦後復興の将棋連盟と共にきて、そのことに忙殺された主人の現役時代だったので、今やっと静かに暮らせるというのが実感です。主人は現役中のほとんどを連盟の役員として働き、将棋界の社会的地位の向上を願ってきました。何かをしなければと、今の暮しから思えば凄絶なもので、職団戦も、よい子の将棋会、女性教室も、ともに苦労なさった初期の方々のお顔が浮びます。

 将棋を指すことはもちろん、人と接して何より品性(格)を重んじる主人の生き方が好きです。棋士の妻になってよかったと思っております。

※ ※ ※ ※

趣味を楽しむ

 生活の苦労はなかった、と言う。浮き沈みが厭だということで、最初から対局料で生活しない方針を貫いた。生活は月々の原稿料と本の印税で充分だった。

 ただし、そのために主人はみんなが寝静まってから、夜通しで一生懸命に原稿を書いた。大阪屋号(書店)から本を十冊以上も出し、すべて順調に売れてもいたのだった。

 常に界・道・盟のために、私利私欲を捨て奔走した主人。連盟の仕事が80%、自分の将棋は20%だった。将棋だけに専念させてもらえなかった。当時は理事の手当はゼロ。会長時代は休場して復興に専心した。職員の給料を払うため家の預金を持ち出したことさえあった。

「まあそういう巡り合わせだったんですね」

 今やっと静かになって趣味の「行体摘画」(羽二重を染めた材料で、花や鳥などを折って作り、色紙や短冊に飾る手芸)や俳句を楽しむ。

 摘画は、主人の現役時代、対局で遅くなるのを待ちながら、時間を忘れるために熱中するようになってもう二十五年になる。句歴も、俳人協会の偉い先生方が集まる春燈の会員で十年になる。

「主人の身代わりで出るようになったのですが、いまだに最末席、初心者と呼ばれています」

 しあわせな娘の里帰り春の服

 

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

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原田栄子さんは、馬淵逸雄陸軍少将の次女。

「司令官の娘というのは、忠君愛国という思想のせいか、率直に言って色香が漂わない」

”色香”のような、口語ではあまり使わない言葉を話すのが原田流。

同情結婚、人命救助の結婚も、原田泰夫九段らしい表現だ。

「だけれども、家庭とか子供、内弟子のことでは、私はひとつも心配したことがない。そこのところはテキを大いに褒めてやりたい。感謝また感謝です」

原田九段は奥様のことをいつも「テキ(敵)」と呼んでいた。

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この頃は、両家とも旧家でしっかりしていれば、当人同士が会う前に結婚が決まることがあったということになるのだろう。

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「四畳半、三畳二間、八畳の居間のある十五坪の家だったが、そこに内弟子四人、家族四人、他に居候も時々あってテンヤワンヤ。内弟子は三畳間に二人づつ。八畳の部屋は通り道のようで、家族四人は四畳半一間に寝起きしていた」

奥様は本当に大変だったと思う。

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「でも今日は帰ろうと思うと弟が、三田の慶応大学に通ってたんですが、必ず現われて。いつでもそうでとうとう…….」

この頃の住まいの港区小山町は現在の港区三田1丁目。慶応大学と非常に近い場所だった。

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「浮き沈みが厭だということで、最初から対局料で生活しない方針を貫いた。生活は月々の原稿料と本の印税で充分だった」

原田九段は結婚の翌年にA級に昇級する。対局料が安い時代だったとはいえ、ものすごい決断だ。

「当時は理事の手当はゼロ。会長時代は休場して復興に専心した。職員の給料を払うため家の預金を持ち出したことさえあった」

日本将棋連盟の資金繰りが非常に厳しい時代があった。

「縁の下の力持ち」の引退

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「皮肉なもので、狭い時に人が多く、今豪邸(敷地九十坪、二階建・六十四坪)に住めるようになったら、夫婦二人だけだ」

「やっとお鍋も小っちゃいの買いまして」という言葉が心を打つ。

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「将棋を指すことはもちろん、人と接して何より品性(格)を重んじる主人の生き方が好きです。棋士の妻になってよかったと思っております」

原田九段には将棋ペンクラブ名誉会長を10年以上務めていただいた。

その頃は、将棋ペンクラブ大賞最終選考会、新年会が原田九段邸で行われており、私も何度も伺ったことがある。

大人数の宴会の準備など大変だったのに、奥様はいつも笑顔で暖かく迎えてくださった。

2004年に原田九段が亡くなって以降、原田九段に代わるように奥様が将棋ペンクラブに入会され、現在に至っている。

感謝、感謝の言葉しかない。

 

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