観戦記を書く者として、自分自身への戒めも込めて。
将棋世界1987年12月号、内藤國雄九段の「自在流スラスラ上達塾」より。
昔は新聞将棋の切り抜きを毎日欠かさずにされている人が多かった。
中には全棋戦の切り抜きをする(勿論そのために沢山の新聞を購入する)プロ顔負けの熱心な人も少なくなかった。
今は、そういう統計があるわけではないが切り抜きに精出す人はうんと減ってしまったのではないかという気がしてならない。
情報は豊富になると有難味が薄れる。
専門誌が増えたほか、テレビ、週刊新聞将棋、一般週刊誌の中の将棋記事等至る所に将棋情報がある。
「この頃は新聞を切り抜く時の胸のわくわくするような楽しみが薄くなりましたね」という声をよく耳にする。
とはいえ毎朝掲載される新聞将棋には他には得られない独特の持ち味がある。
(中略)
新聞の観戦記は、将棋を全くご存知ない方も意外と読んでいる。ご婦人の読者があるのもこの事を物語っている。
そういう方は情景描写や対局風景の文章を楽しみ、戦いの内容や指し手のことは漠然と想像する。将棋を知らないという事が、かえって想像を自由にし活発にするという事もあるようである。
色々な楽しみ方があるわけだが、私としては本誌の読者には対局者のつもりになって読むという事をお奨めしたい。これが読む楽しみを倍増させるし棋力向上にも役立つと思うからである。
次に私の切り抜き帳から幾つか取材してみたい。
1図以下の指し手
△4四歩▲6四角△7三桂▲5五角
(2図)観戦記「(内藤の)▲5五角は一種の勝負手であることに違いない。△4四角と合わせるのは▲6四角でうるさいし△3三桂でも▲6四角で困る」
この観戦記は対局者としては不満である。
書いてほしいと思う事が書かれていなくて書いてはいけない事が書かれている。
いけない事というのは△4四角に▲6四角がうるさいという所である。
”うるさい”とか”一局の将棋である”という表現は解説する方としてはまことに便利な言葉であるが、これは一種の逃げ口上であるからだ。
この場合も”うるさい”と言われると何となくそんなものかという気にさせられるが具体的に読んでみると、はっきり間違っているという事がわかる。
即ち1図以下△4四角▲6四角△2六角▲8二角成△同金▲6二飛△5二飛。これは先手角損で敗勢になっているといってよい。
1図に戻って、対局者(先手番)のつもりで局面を見てほしい。▲5五角の所では▲7五歩△6三銀▲8六飛という風にもっていきたいとは思わないだろうか。
それが私の前から描いていた構想であったが、いざとなってそれには落とし穴があることに気がついた。即ち1図で▲5五角の代わりに▲7五歩と打つと、以下△同銀▲7六歩△4四角▲5六飛△8六銀(参考1図)。
△7五同銀と強く応じる手が△4四角のおかげで成立する。参考1図で▲同金は△7七角成で先手非勢に陥る。
もし△4四角と打てなくすれば▲7五歩と叩く筋が成立する。▲5五角(1図)はその読みに立ったもので△4四角と合わせてくれれば▲同角△同歩で△4四角の筋が消える。
当事者としてはその辺のアヤを書いてほしかった。少し棋力のある人なら▲5五角にどうして△4四角と打たないのだろうと不審に思われたに違いない。
(以下略)
* * * * *
「(内藤の)▲5五角は一種の勝負手であることに違いない。△4四角と合わせるのは▲6四角でうるさいし△3三桂でも▲6四角で困る」
これは確認不足というか、正しくない解説になってしまっている。
自分で(この変化はこうなのかな)と思っても、それが間違っていないかどうか、指した棋士に確認をするべきだと思う。
指した手の真意が正しく伝えられてなく、なおかつ狙ってはいない不利になる変化が書かれているのだから、どのような温厚な棋士でも、ムッとするはず。
「この観戦記は対局者としては不満である」と、穏やかな表現になっているが、本音としては、もっと厳しい言葉を使いたかったのではないだろうか。