将棋マガジン1988年6月号、中原誠名人の「私のベスト十二局」より。
王将戦の時期と、名人挑戦者決定戦決定の時期とが近いので、そのあたりのことにも触れておこうかと思います。
この年度(1984年度)のA級リーグは出場者が9人(大山十五世名人休場)だったので、私だけが一足先に指し終えていました。6勝2敗の成績でしたが、最終戦の米長-森安戦で森安さんが勝つと、プレーオフになるといった状況でもありました。
それで最終戦の観戦に行こうと思っていたところへ……田舎から「兄、急死」の連絡を受けたのです。
こういった事情ではどうしようもなく、結果連絡を毎日新聞社の方に頼んでおいて私はあわてて田舎へ向かったのです。
兄は聾唖学校の教師をしていましたが、とても酒が好きで、とても風呂が好きといった人間でした。なんでもその日は、教師達仲間と蔵王へスキーに行ってたらしいんです。ひと滑りしたあとみんなで食事をしたまではいいんですが、そのあと一人だけ風呂へ入ったのがよくなく、そのまま倒れてしまったわけです。かなり飲んでいたのと、普通より風呂の温度がたぶん熱かったんでしょう。
まだ49歳でしたのに……。
最初はなんてひどい死に方をしたんだと思いましたが、よく考えてみると、好きな酒を飲んで好きな風呂へ入ってのことなので、ひょっとすると最高の死に方であったのかもしれませんが……。
あわただしい中、午後11時を過ぎたあたりだったでしょうか。
”挑戦者決定”の報が、東京から入ったのです。ほんとうは悲しい状態でありながらも、その電話を受け取ったときはさすがに嬉しく感じました。
悲しみと喜びを合わせ持って田舎にいましたが、実は葬儀には出られなく東京へ舞い戻っています。
田舎の古くからある風習によって葬式の日が遅れ、谷川さんとの王位リーグの対局と重なってしまったからです。事情が事情だけに対局日変更は可能でしたが、これをするとどこかあとで気持ちの負担が残るので、辛いながらも対局を優先しました。
王位リーグは、観戦記者が芹沢さんで、担当の能智さんも顔を見せていたので、そのとき私が”くれぐれも酒には気をつけてください”なんて話をしてはいたのですが……。
その二人も、いまはもういません。
(以下略)
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「そのあと一人だけ風呂へ入ったのがよくなく、そのまま倒れてしまったわけです。かなり飲んでいたのと、普通より風呂の温度がたぶん熱かったんでしょう」
49歳の若さ、そして、あまりに突然のことだったので、中原誠十六世名人もかなりショックだったことだろう。
一昨年亡くなられた元・近代将棋編集長の中野隆義さんが、同じような状況だった。
元・共同通信記者で観戦記者の田辺忠幸さんは、2008年、LPSA指し初め式に出席したその晩、自宅で入浴中に亡くなられている。
気持ちよく飲んだ後の入浴は、控えた方が良いのかもしれない。
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「事情が事情だけに対局日変更は可能でしたが、これをするとどこかあとで気持ちの負担が残るので、辛いながらも対局を優先しました」
”どこかあとで気持ちの負担が残るので”というところを作らないのが勝負師魂だ。
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「王位リーグは、観戦記者が芹沢さんで、担当の能智さんも顔を見せていたので、そのとき私が”くれぐれも酒には気をつけてください”なんて話をしてはいたのですが……」
芹沢博文九段も能智映さんも酒が大好きだった。