将棋世界1991年1月号、田丸昇七段(当時)の第3期竜王戦第3局観戦記「羽生、またも終盤で競り負け」より。
1年前を思いおこす。ちょうど今頃は、本誌増刊号の「竜王、羽生善治」の制作に大わらわの時期であった。
雑誌の個人対局集は、7年前の谷川浩司以来だ。当時は21歳の新名人誕生で世間が大フィーバーし、わずか1ヵ月の突貫作業でつくった特集号は、谷川ブームにのかってか非常によく売れたと聞いた。
将棋連盟の出版担当理事に就任した私の最初の大きな仕事が、この羽生増刊号の企画であった。島朗竜王への挑戦権を獲得した時に正式に決定した。島竜王には悪いが、10代のタイトルホルダーの実現を見越してのことで、それを予感させるほど羽生はパワーと勢いを持っていた。
谷川特集号の棋譜掲載は、順位戦と名人戦だけで局数は約60局。羽生の場合は、当初は100局ぐらいセレクトするつもりだったが、増刊号編集長の沼春雄が「今なら全局集ができる」といいだした。
昨年秋の時点で総対局は約250。ハードカバーの書籍ならこの倍もできようが、雑誌の企画としてはギリギリの数字だ。
棋譜が多いと将棋年鑑みたいにならないか。読み物主体に考えていた私は、こんな危惧を抱いた。しかし、「ハンパなものはやめましょう」という編集長の強い意志をくみ、全局集のゴーサインをだした。棋譜のスペースを多くとるために、将棋マガジンと同型のB5に版型を変更した。
羽生増刊号の出版を決めたものの、編集面人事面では大いに苦労した。スタッフは沼編集長に世界のHとマガジンのOだが、彼らは専任ではない。年末の多忙時に正規の仕事をこなしながらの業務である。当然ながら遅々たる進行を余儀なくされた。竜王戦が第8局までもつれなければ、終了後1ヵ月で出版というグッドタイミングは得られなかった。
一口に二百数十局というが、将棋年鑑に掲載する約半分の量だ。この膨大な棋譜ページは編集長が一手にさばいた。さすがに、長年の年鑑編集で培った手腕である。
私は読み物ページの企画を担当した。誌面に華やかさを出すには、女性との対談記事がほしい。そこでスポンサーの富士通の関係でタレントの宮沢りえと山瀬まみ、そのほかに井森美幸、ゴルフの平瀬真由美などが浮かんだ(羽生が菊池桃子のファンであることは、この時はわからなかった)。だが彼女らは超売れっ子で、特別なルート、コネがないかぎり実現はむずかしい。
羽生の趣味は、モノポリー以外に囲碁がある。囲碁の女流棋士はどうかと思いついた。
(中略)
そのラインで囲碁講座アシスタントの島田広美さんに登場してもらった。彼女の父が羽生ファンというのが奇縁だ。羽生と島田さんは、対談のほかに碁を一局打った。その模様も誌面にのせたが、将棋雑誌に碁譜ができたのは前代未聞であろう。
このほかに米長邦雄九段が羽生家を表敬訪問して行った対談、大山・中原・谷川の三名人の人物評、バトルロイヤル風間のマンガ物語と、雑誌としての体裁がようやく整ってきた。
はじめに記したように、羽生増刊号の企画は羽生新竜王誕生をもくろんでのことだ。それも4-0や4-1で早く終わっては、制作日程が間に合わない。4-2ぐらいが理想であった。
ところがフタをあけてみると、持将棋をはさんで羽生の2連敗。竜王奪取に暗雲がかかった。島防衛の場合の方策をめぐらせる必要が生じた。その時は「天才棋士、羽生善治」と改題し、ほとぼりのさめる4月まで出版を延期しようと話し合ったものだ。それだけに、第4局で初白星をあげた時はスタッフ一同「いける」とある手ごたえを感じた。あとの経過はすでに周知のことであろう。
今期の竜王戦でも羽生はいきなり2連敗した。今年は出版がらみの話は別にないが、勝負が一方的に偏るのはつまらない。巨人が西武に4連敗してみんなしらけたのがそのよい例だ。それに春の名人戦とならんで秋の竜王戦は、将棋界の二大イベント。拮抗した勝負で将棋界を盛り上げてほしいのだ(ホンネは雑誌の売上に影響するからだが……)
私は、昨年とは事情がちがうが本局あたりで羽生に勝ってほしいなという気持ちで、対局地の北陸に向かった。
(以下略)
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このような書籍は、発売するタイミングが大事。
羽生善治新竜王誕生が第8局でとなったのも、出版側としては思わぬ幸運だったことになる。
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「羽生が菊池桃子のファンであることは、この時はわからなかった」
羽生竜王と菊池桃子さんの対談は、翌年6月に実現されている。
竜王戦で挑戦中の慌ただしい時期に対談をするよりも、羽生竜王的にはかえって良かったことだろう。
→羽生善治竜王(当時)「好みのタイプなんてお聞きしていいですか」
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1990年の「竜王、羽生善治。」に続いて、羽生九段が初めて名人位を獲得した1994年には将棋世界増刊号「名人、羽生善治。」が出版されている。